蜷川幸雄さんの訃報(ふほう)を受け、12日夜、東京芸術劇場の芸術監督で劇作家の野田秀樹さんが報道陣の取材に答えた。以下はそのやりとり。
Q:演劇界の大物が亡くなって、受け止めを
僕16歳で蜷川さんの芝居を見て以来、蜷川さんとは生まれが20歳違うんですが、自分にとってはやはりヒーローで、ショックでした。
Q:野田さんのことは悪口は言ってるが仲はいいんだ、信頼してたと
悪態をついたりしました。元気な蜷川さんと会ったのは、去年の「海辺のカフカ」のときで、もうちょっと車いすの状態ではありましたが、相変わらず「久しぶりにおもしろかったよ」って悪態ついたら「うるせー」って言われて、なんか「元気なんだな」っていうそういう感じがしました。
80歳になってあれ作ってるのはすごいな、と心から思いました。
Q:最後に会ったのは
実は、声で最後聞いたのは、去年の12月にお酒飲んでいたずら半分に電話して、そしたら思いの外、やっぱりなんか蜷川幸雄のはじめて弱音を聞いたというか、「おれだめだ」というようなことをおっしゃいました。でもなんか悪態ついたら「くたばってんじゃねえよ」というようなこと言ったら喜んではいたんですけど、やっぱりちょっとあれなんだなというようなことをおっしゃって、そして、実は昨日昨夜強引にこういう状況とは知らずに病院にいきまして、10分いましたかね、なんか目はもう開けてくれませんでした。
でもなんか野田来たよとか言って、人工呼吸の中でしたけど、うーとかあーとか声だしてくれました。
99年の「パンドラの鐘」で長崎舞台に原爆を正面からやって。あれは以前から蜷川さんが「野田おれに台本1本書け」とずっと言われてまして、ただ自分でやる物書きますので、なかなか書けずにいて、パンドラの鐘を書いた時に自分で書いて自分でやろうと思ってるんだけど、それを別の場所で蜷川さんが演出してくれるなんてそんな虫のいい話があるかなって聞いてみたら、そういうところが蜷川さんの度量の広いところで、それでいいよって言いまして、普通に考えて僕が書いて僕が演出する方が絶対有利だと思いますから、蜷川さんはそれは全然大丈夫だそれでやろうって。
だから演劇的にもその当時劇場違うところで、同じものを同じ時期にやるって、演劇っていう小さい世界を超えたおもしろい企画になった。