幸晴が身を潜めたとされる寺「教学院(現在は吉祥院)」。この近くで鍛冶屋を営んだとされる=山口県周南市栗屋
戦国武将・真田幸村の息子が現在の山口県周南市櫛ケ浜に漂着し、生涯を終えたことなどが記された歴史資料を、地元の櫛浜郷土史会(村井洋一会長)が見つけた。幸村を主人公にしたNHK大河ドラマ「真田丸」が放送中なだけに、「夢が膨らむ歴史ロマンを地域活性化の起爆剤に」との期待が高まっている。
真田幸村(信繁)は、信州(長野県)上田城主・真田昌幸の次男。大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将として徳川軍に打撃を与え、翌年の夏の陣で、家康を窮地に追い込んだが討ち死にした。のちに「日本一の兵(つわもの)」と称賛された。
周南市のJR櫛ケ浜駅近くの原江寺には、「幸村幸晴君夫婦之墳」と刻まれた石碑が立っている。この「幸晴」が、幸村の息子と伝わる人物だ。幸村には多くの子がいたとされるが、「幸晴」は真田家の系図には記されていない。
地元では長く、この「幸晴」について、以下のような伝説が語り継がれてきた。
大坂夏の陣で幸村が戦死し、遺児となった幸晴。乳母や家臣と共に九州をめざして大坂を船で発った。ところが、暴風雨に見舞われ櫛ケ浜に上陸。追っ手から逃れるため吉村、河村と姓を変え、栗屋地区で鍛冶(かじ)屋を営み、当地に永眠した――。
伝説の謎解きに挑んだのが、櫛浜郷土史会の河村康夫さん(58)。まず着目したのは、「幸村幸晴君夫婦之墳」を建てた「河村幸雄」だ。