旧ソ連軍政治将校ジェルバコフ少尉の遺品の中から見つかった、尋問中の溥儀(左)の写真
ラストエンペラーこと旧満州国皇帝の溥儀(1906~67)は敗戦直後の45年8月、奉天(現・瀋陽)郊外で旧ソ連軍に拘束され、数カ月間、シベリア南部のチタで軟禁された。拘束からチタまでの護送ルートは不明だったが、日蒙共同調査団が5月、護送責任者だったソ連軍政治将校が経由地をびっしりと裏書きした1枚の写真を確認した。モンゴル東部のソ連軍巨大基地を経て、行き先をモスクワから途中でチタへと変更した機密行動だった。
モンゴルの原野 対日侵攻の拠点に迫る
調査団長の岡崎久弥さん(53)は「戦後処理をめぐる連合国間の主導権争いのなか、ソ連が重要カードとなる溥儀の身柄をひそかに護送する緊迫した様子が浮かび、興味深い」と話す。
溥儀は満州国の崩壊直後、日本へ亡命する途中の45年8月19日に奉天郊外の空港でソ連軍に拘束された。50年までシベリア南部のチタや極東ハバロフスクで軟禁された。
ノモンハン戦跡やソ連の巨大基地を調べてきた日蒙共同調査団は今年5月、基地に駐屯した元兵士らに聞き取り調査し、朝日新聞と朝日放送が同行取材した。
調査の過程で、対日侵攻の主力として満州へ進軍し、溥儀の護送を担当したソ連第6親衛戦車軍の政治将校ジェルバコフ少尉を探した。少尉は2015年9月に死去していたが、モスクワ郊外に住む長女タチアナさん(67)が遺品を保管。その中に溥儀を尋問する写真があり、裏面に少尉の筆跡で護送ルートが詳しく記されていた。
記述によれば、溥儀を乗せた輸送機は45年8月19日に奉天から内モンゴルの通遼へ飛行。翌20日に「タムツァグブラク」経由でチタに着いた。タムツァグブラクは昨年までに調査団が確認した三つの巨大基地の一つ、タムスク基地の現地呼称で、第6親衛戦車軍の臨時参謀本部があった。
少尉が生前に残した手記と記録を突き合わせたタチアナさんによれば、溥儀と少尉らはタムスク基地で輸送機を乗り換えた。イルクーツク経由でモスクワへ向かう予定だったが、機中で急にチタへ向かうよう変更命令を受けた。米国や蔣介石率いる中華民国の目を警戒したとみられる。
溥儀は、チタから南へ約15キロにある軍のサナトリウム(療養所)に軟禁された1年後、東京で開かれた極東国際軍事裁判に、ソ連の主導で証人として出廷。50年に中華人民共和国に引き渡された後は撫順戦犯管理所へ収容され、59年に模範囚として釈放された。
タチアナさんは「最高レベルの機密として実行された護送だったと父から聞いた。国家から『敵』とされながら、父は溥儀に悪い感情は持っておらず、厳しい境遇に同情していた」と話した。(編集委員・永井靖二)
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モンゴル東部に残る旧ソ連軍の巨大基地に駐屯した元兵士らの証言を追う「テレメンタリー2016 満州侵攻 71年目の真実」は今月19日から下旬にかけて(関西地区は26日午前5時20分から)、テレビ朝日系列で放映される。