足利工の土屋圭輝君。母の恭子さんによると、「父親そっくり」という
あの暑い夏の日も、父と野球をするはずだった。
栃木・足利工3年の土屋圭輝(よしき)君は小6だった2010年7月11日、父の伸昭さん(当時40)を病気で亡くした。普段は自分より先に起きる父が、その朝は布団で横になったままだった。土屋君の呼びかけにも動かない。すでに伸昭さんは冷たくなっていた。「前の日は元気だったのに……」。土屋君はその場を動けなかった。
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その日は日曜日。伸昭さんが監督を務める地元佐野市の少年野球チームの練習が控えていた。
チームでは土屋君も教え子の一人だった。家では優しい父が、グラウンドでは鬼のようだった。「お前を強くするためだ」と真剣に向き合ってくれる父。ついて行こうと必死だった。
伸昭さんは、プロ野球の横浜(現DeNA)、広島で通算2432安打を記録した石井琢朗さん(現広島コーチ)と足利工でチームメート。別々の中学校に通っていたころから互いに競い合った仲だった。
2人が高2だった1987年夏、足利工は甲子園に出場。マウンドに立った石井さんに、伸昭さんはアルプス席から声援を送った。チームは初戦敗退。高3では甲子園に届かなかった。
87年の夏、石井さんに取ってきてもらった甲子園の土は、居間に飾ってある。「とにかくすごい場所だ。あそこから見える風景は忘れられない」。バッティングセンターからの帰り道、車を運転しながら伸昭さんは息子に語りかけた。
土屋君は伸昭さんの死後も野球を続けた。土屋君が選んだ高校は足利工。「父と同じ足工で甲子園を目指したかった」。父が夢を追った当時と同じグラウンドで汗を流す。自宅では、工場勤務で溶接作業にたけた父が作ったティーで打撃練習を繰り返す。背丈は170センチに伸び、父に並んだ。
初戦は7月13日、連合チームの那須・那須海城との1回戦。「天国で見守ってくれている父を、自分が甲子園に連れて行く」。打者の手元で微妙に変化する直球を武器に、左腕投手の土屋君は勝負の夏に挑む。
■石井琢朗・広島1軍打撃コーチからのエール
土屋は甲子園に行けなかった高3の夏の試合後も、みんなが涙する中で気丈に振る舞うような「いいやつ」だった。チームは精神的に支えられていた。
土屋が亡くなって、試合の合間をぬって弔問に駆けつけた時、(息子の土屋君と)キャッチボールをした。しっかりとした姿が土屋と重なって見えた。父親の存在があったから、野球を続けられたんだろう。
夏に強い「足工魂」は今も受け継がれている。高3の夏は一度きり。捕手の後ろに父親がいると思って、思いっきり投げ込んでほしい。悔いの残らないよう、頑張れ。