被爆直後の広島を被爆者が描いた「原爆の絵」。ラルフ・ニールさんらとみられる米兵捕虜2人が連行される姿が中央左に描かれている=竹下士郎さん作、広島平和記念資料館所蔵
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広島原爆の日の6日、一本の映画が米国の教会で上映される。被爆死した米兵捕虜がテーマの「Paper Lanterns(灯籠〈とうろう〉流し)」。長年、米政府が「タブー」として認めてこなかった被爆米兵の真実を追う物語だ。
その一場面。山口県柳井(やない)市伊陸(いかち)の山あいに立つ「平和の碑」の前。昨年夏、伊陸小6年だった角田康輔(かどたこうすけ)(13)が、米国人牧師ラルフ・ニール(59)に手のひら大の金属片を贈る。米軍のB24爆撃機ロンサムレディー号の機体の一部だ。
1945年7月28日、ロンサムレディー号は広島県呉沖で戦艦「榛名(はるな)」を攻撃中に対空砲火を浴び、伊陸の山あいに墜落した。その乗組員だったのがニールと同名のおじ。広島城の近くにあった中国憲兵隊司令部へ連行され、ほかの米兵らとともに収監された。
8月6日、原爆投下。爆心地から約500メートルの司令部は爆風で大破。米兵捕虜らは脱出したが、再び捕らえられる。ひどい吐き気と痛みに苦しみ、緑色の粘液のようなものを口から流したという。居合わせた米兵仲間に懇願した。「撃ち殺してくれ」。そして、13日後に死亡したとされる。
原爆の投下先が広島に決まったのは、米国が捕虜収容所はないとみていたのが理由の一つといわれる。だが実際には、ニールら十数人の捕虜がいた。自国の核兵器に命を奪われた。
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墜落機ロンサムレディー号。その破片は地元の公会堂前に集められ、山積みに。ちりとり、ざる、ストーブに加工する人もいた。
戦後50年を経た98年8月、…