観戦する歌手の山本譲二さん=18日午前、阪神甲子園球場、金居達朗撮影
■甲子園観戦記
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もう35年前になるんだなあ。甲子園のマウンドで「みちのくひとり旅」を歌った。テレビの仕事だったけど、聖地だけに気が引けた。そのとき以来の甲子園だな。
五回表、鳴門のサード武石君がファウルフライを追う。ベンチの中へ左腕を伸ばして捕った! 彼は死ぬまで忘れないだろうね。
僕は49年前の夏、甲子園に出た。背番号は10。甲子園に来る前にレフトでエラーして、レギュラー落ち。松商学園との1回戦は、0―3の九回表ツーアウトでやっと代打。カーブを打って、セカンド内野安打よ。抜けてりゃのちのち「クリーンヒット」って言いふらしたんだけどな。次のバッターが倒れて、高校野球が終わった。
甲子園の土は、母校のマウンドにまいた。「野球よさらば」と思いながら。卒業後は地元の会社に就職するけど、いずれは東京で歌い手になるって決めてたからね。
半年ぐらいで退社して、何のツテもなく上京。でも、甲子園が僕を助けてくれた。いろんな職に就いたけど、履歴書に「甲子園出場」と書くと、すんなり採用になった。北島のおやじに弟子入りしたときもそう。新宿コマ劇場の楽屋に通ってあいさつし続けたんだ。10日目に話しかけてもらって「甲子園に出ました」って言ったら、「明日から来い」となった。
74年にデビューしたけど、鳴かず飛ばず。その時期に僕を支えてくれたのも甲子園だったな。「甲子園に出られる強い星の下に生まれたんだ。絶対に何とかなる」。そう思って、死ぬ気で頑張った。
80年に発売した「みちのくひとり旅」が大ヒット。あれがなかったらと思うとゾッとする。翌年にはNHK紅白歌合戦に初めて出た。1年前の大みそかはキャバレーで歌ってたんだけどさ。初コンサートを大阪でやることになって、甲子園の組み合わせ抽選会をしたフェスティバルホールを希望した。新たな一歩は、思い出の場所から踏み出したかったから。
7年前に右耳に腫瘍(しゅよう)ができて、聞こえなくなった。良性だから手術はできるけど、顔面や舌に麻痺(まひ)が残る可能性があるらしい。それだと歌えない。僕から歌をとったら何も残らないから、手術はせず、様子をみてる。仕事は減ったよ。でも、うそをついて仕事をとっても仕方ないからね。
このトシになると、大事なことを忘れがちになる。高校野球から学んだ素直さと礼儀正しさがあるから、いまの自分が山本譲二でいられるんだよな。ここに来て、それを思い出したよ。ありがとう、甲子園。(構成・篠原大輔)
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やまもと・じょうじ 歌手。1950年、山口県生まれ。早鞆高3年の夏に甲子園出場。1年弱の会社員生活を経て、歌手を目指し上京。北島三郎に師事。80年発売の「みちのくひとり旅」がミリオンセラーに。