今回見つかった木橋の橋脚=大阪府高槻市、井手さゆり撮影
バチカン(ローマ法王庁)から「福者(ふくしゃ)」に認定されたキリシタン大名の高山右近(1552~1615)が城主を務めた高槻城(大阪府高槻市)で、織田信長も手を焼いたとされる右近の築いた堀や、江戸幕府が大規模な改修工事をした痕跡が新たに見つかった。高槻市教育委員会が1日発表した。
高槻城は1573~85年、右近が城主を務めた。その後、豊臣家を経て徳川家の直轄地となり、大坂夏の陣の2年後の1617年、西国大名への備えとして幕府が全面改修。明治の廃城後に堀は埋められた。現在は公園になっている。貯水施設を建設するため、市教委は昨年11月から発掘していた。
堀は幅約9メートルで、江戸時代の二の丸と三の丸の間の約75メートルにわたる内堀の下にあった。2010年には今回の調査地の南でも幅約19メートルの戦国時代の堀が見つかった。右近は1578年、信長に謀反を起こした主君の荒木村重に従い、一時織田軍に高槻城を包囲された。まもなく右近は降伏したが、広大な水堀と城壁で守られた城を織田軍は攻めあぐねた、と外国人宣教師が記録している。
堀の二の丸側では「不明(あか…