1945年8月4日に米軍がコザ孤児院で撮影したとされる写真。解説には「食事をする栄養不足の子ども。コザにて」とある(沖縄県公文書館提供)
72年前の沖縄戦は、1千人以上の孤児を生んだといわれる。米軍の施政権下に切り離された沖縄は、孤児に関する全国調査や対策から漏れ、詳しい資料はほとんど残っていない。孤児として過ごした苦しい時代を見つめなおし、語り始めた人がいる。
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7歳の少年はひとり、戦場をさまよっていた。1945年6月ごろ、沖縄本島南部。雨の中、身を隠す場所を探し、見知らぬ大人の背中を追う。道ばたの草を食べ、泥水をすすった。道ばたに転がる遺体からは、甘ったるい臭いがした。
少年は嘉陽宗伸(かよう・そうしん)さん(79)=那覇市。一緒に逃げた祖父と母は、目の前で砲弾に倒れた。「バーンと音がして、母が覆いかぶさってきた。おなかの中が出て……。祖父とふたり、即死だった」
ひとりきりになって4~5日が過ぎたころ、米兵に見つかり、トラックの荷台に乗せられた。コザ(現沖縄市)の民家には、子どもが50人ほど詰め込まれていた。「コザ孤児院」と呼ばれたこの民家で、嘉陽さんの戦後は始まった。
沖縄県の「戦後沖縄児童福祉史」などによると、米軍は本島各地の収容所に10カ所の孤児院を設け、計1千人の子どもがいた。食糧事情や衛生環境は悪く、多くの子どもが死亡したという証言が市町村史などに残るが、詳細な記録は見つかっていない。
母を恋しがって泣く子。幼く、自分の名前も知らずに死んでいった子どもも少なくない。遺体は、艦砲射撃であいた穴に埋められた。ひめゆり学徒隊だった本村つるさん(92)は捕虜となった後の45年6月末ごろ、現在の南城市の孤児院から2~3歳の子ども15人ほどをコザ孤児院へ連れて行き、年末までそこで働いた。「ミルクを飲ませるんだけど、下痢してね。服も、おしめもない。雑魚寝の子どもたちは朝起きると体中、便まみれだった」
出征していた父も帰らず、嘉陽…