家族9人を沖縄戦で失った金城ハツさん=21日午前、那覇市、堀英治撮影
軍民が入り乱れて、広い範囲を逃げ回り、犠牲になった沖縄戦。遺骨の身元特定がほとんど進まないなか、高齢化が進む遺族たちは、72年たったいまも家族の姿をさがし続けている。
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沖縄県糸満市の金城ハツさん(78)は、6歳で沖縄戦を迎えた。家族11人のうち9人を失ったが、誰の遺骨もない。「72年、何の手掛かりもなかった。もう、DNA鑑定だけが頼り」
1945年6月上旬、沖縄本島南部。金城さんは、祖母と母、兄弟姉妹の計9人で、ガマと呼ばれる洞窟に隠れた。父は「防衛隊」として召集され、長姉は感染症で亡くなっていた。
ある日、逃げこんできた日本兵が、泣きやまない6カ月の末弟に銃を突きつけ「米兵に見つかる。出て行かなければ殺す」。次姉(18)が末弟を抱いて洞窟を出た。
数日後、母が洞窟で荷物をまとめていた。子ども心におかしいと思った。寝るまいとがんばったが、いつのまにか寝てしまった。めざめると、兄(11)と姉(17)、そして母の姿がない。祖母と8歳の姉、3歳の妹を残して、ガマからいなくなっていた。
母に捨てられた、と気づいた。姉妹3人で、わーわーと泣いた。夜が明けると、米軍がガス弾を撃ち込んできた。妹を背負い、祖母と手をつないでガマを出て、米軍に捕まった。姉は米兵を怖がったのか、洞窟の奥に行ってしまった。3人はトラックに乗せられて収容所へ。妹はそのまま連れて行かれ、行方知れずに。祖母は収容所で亡くなった。
戦場で次々と生き別れた家族。戦後、再会できたのは、弟と一緒にガマを出て行った姉だけ。弟は栄養失調で亡くなっていた。
戦後は親戚のもとを転々とし、中学校を卒業後、米軍人の家庭で家政婦として働いた。遺骨をさがす余裕はなかった。
金城さんは、今も母から捨てられたと思っている。「恨みつらみで、コノヤローと思ってしまう」。72年たっても、仏壇に手を合わせられない。一方で、生き別れてしまった妹も、自分に捨てられたと感じていないか。生きているのか亡くなっているのか、ずっと心に引っかかってきた。
「あなたを捨てたわけじゃないんだよ」。どんな形でも妹に会えたら、それだけでも伝えたい。