試合で使用するバットを持ち、ポーズをとる広島の新井貴浩さん=広島市南区のマツダスタジアム、上田幸一撮影
昨年、25年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした広島カープ。原動力の一人、新井貴浩選手(40)は、高校時代から猛練習ぶりで知られる。甲子園出場は逃したが、仲間と必死に白球を追いかけた経験はその後の人生の糧に。夏の高校野球広島大会が8日に開幕するのを前に、思い出を聞き、球児への直筆のメッセージをもらった。
【動画】広島カープの新井貴浩さんから高校球児へのメッセージ
動画もニュースもたっぷり!「バーチャル高校野球」
各大会の組み合わせ・ライブ中継予定はこちら
みんなで決める歴代名勝負 甲子園ベストゲーム47
◇
練習はすごいきつかったですね。腹筋とか腕立てとか、そういうメニューが結構あったので。回数も500回、5セットとか。走って基礎運動してまた走って。常にその繰り返しだったので、ほんとにしんどかったですね。
厳しい練習によって基礎体力の下地ができた。あれに耐えたからこそ、けがをしにくい身体ができたんじゃないかなって思います。
やらされてここまで来たので。自主的にやらないと意味がないって言われていますけど、やらされる練習でも意味があると思いますね。遠回りするかもしれないですけど、絶対に実にはなります。
◇
納得いかないことが多かったですけど、歯を食い縛って我慢することで、少々のことじゃへこたれない前向きな気持ちになれました。やっぱ厳しい練習も逃げたくない、負けたくないという気持ちがあったので。だから、どんなことがあっても取り組めたんじゃないかな。
心技体の中で、一番大事なのは心だと思うんです。心が体を動かしてくれる。強い気持ちというのが大事ですね。弱気になりながら、挫折しながら今に至るわけです。その度に反発心に変えて「次はやるぞ」って。その繰り返しなんで。反省はしっかりしますけど過去は振り返らずに、前だけ見て進んでいく気持ちでずっとやってきました。
◇
キャプテンは監督から指名されました。その経験は、今の自分をつくってくれた一つの要素になるんじゃないかと思います。
同級生に厳しかったです。気の抜いた感じでエラーすると厳しいこと言っていました。練習に対する姿勢を見て、「それは違うんじゃないか」みたいな。けど、一生懸命やっている人に対しては、そういうことはなかったですね。
後輩とかより同級生に言っていたような気がしますね。だから「率先垂範」を心がけていました。そうじゃないと同級生にも言えないですよね。
グラウンドに早く行って最後まで残るとかを、意識してやっていました。朝5時くらいには家を出て帰るのは夜10時半とか、11時とかですから。
地位が人を育てるっていいますけど。任せられたからには責任持ってやらないといけないっていう意識はありました。ポジションを与えられて意識が変わりましたね。それまではやっぱり上の人がいたので、ついていけばいいという感じだったんですけど。
◇
高3の時、3回戦で広陵に勝ったけど、4回戦で西条農業に敗れました。
当時の広島市民球場でやって負けて、球場の裏でみんながすごい泣いていた。とっさに「自分が泣いたらだめだ」っていう風に思いました。
でも学校に帰って号泣しましたね。泣かないっていう風に我慢したんですけど。みんなの前で「キャプテンあいさつ」ってなったときに最初の一声目から言葉にならなかった。
悔しさというより、寂しさですかね。もうこれで終わったという感情。もうみんなと野球できないという思いがそうさせたんでしょう。
◇
甲子園には出場できなかったですけど、3年間いっしょに苦楽を共にし固い絆で結ばれた仲間ができたことが大きかったですね。人生の財産です。
互いに励まし合ってやってきたんで、苦しい状況を共に乗り越えることによって絆がどんどん深まっていくんだと思います。「あれは苦しかったな」みたいな。毎年会ってみんなで食事する時も、苦しかった記憶ばっかり。自分がヒットを打ったとかそういうのは思い出として薄いです。
高校時代の厳しい練習に耐えられたから今こうして野球がやれているんだなって。今ぐらいになってやっと感じますね。
挑戦を続ける限り負けはない。人生もそうですけど、特に野球は日々、失敗をしながら挫折の繰り返しだと思います。
いま、高校野球をやっている子たちも、くじけずに前へ前へという気持ちで、その一瞬を一生懸命やってほしい。その積み重ねが後々に振り返った時に「やってよかった。頑張って良かった」って思えるようになると思うんです。(聞き手・小林圭)
◇
あらい・たかひろ 1977年生まれ。広島工業高校、駒沢大学を経て98年ドラフト6位で広島カープ入団。2006年に本塁打王、11年に打点王を獲得した。16年には通算2千安打、300本塁打を達成し、セ・リーグ最優秀選手(MVP)にも選ばれた。