ノックの順番を待つ横浜高時代の松坂大輔投手。ノッカーは小倉清一郎部長
「昭和の怪物」が江川卓さん(62)なら、「平成の怪物」は松坂大輔投手(36)。横浜高のエースとして甲子園で春夏連覇を達成した1998年は、ぼくも彼とチームを密着取材した。
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「もう風呂に入ったのか」
野球部長兼コーチだった小倉清一郎さん(73)が、校内にある選手寮でだみ声を響かせたのは、その年の6月だった。練習の汗を流してさっぱりした松坂投手は、ニコニコと笑っていた。
「一番風呂のマツって呼んでるんですよ。こいつ、いつも真っ先に入りやがる」
ちゃんと理由があった。風呂で小倉さんと鉢合わせすると、股関節を柔らかくする体操をさせられる。「あ~!」「イテテテ~!」という悲鳴を覚えている仲間も多い。同期の鳥海健次郎さん(36)もその一人。「だから、やたら早く入ろうとしてましたね」
1年秋からエースになったが、「ほかにも試合に出ている選手がいたし、あいつが抜け出た存在じゃなかった」と常盤良太さん(37)は言う。延長十七回の熱闘となったPL学園戦で、決勝2ランを放った強打者だ。
このチームからは最終的に松坂投手も含めて4人がプロ入りしている。技術的にも意識的にも高い仲間と、強豪校の厳しい練習の日々を乗り越えながら、松坂投手はグングンと力をつけていった。
放課後は選手寮でユニホームに着替え、約2キロ離れたグラウンドまで走る。「準備運動代わりです。すぐに練習できるから」と鳥海さん。授業は午後2時に終わる。「その前に着替え始めて、2時15分にはグラウンドに着いていましたね」
一方、寮では仲間とゲームに興じ、練習休日はカラオケやボウリングに繰り出した。「負けず嫌いで、勝つまでやめない」と鳥海さん。ボウリングの重いボールを右で投げ過ぎたらよくないと言えば、「最後は左腕で意地になって投げていた」と苦笑する。
5歳から剣道、小学3年から軟式野球に打ち込んだ松坂少年は、小6で少年硬式野球の江戸川南リトルに入団。ぽっちゃり気味の体形だったそうで、ライバルチームにいた鳥海さんは「アンパンマンと呼んでいた」と語る。
監督だった有安信吾さん(76)は「明るくて、おっちょこちょい。屈託のない少年だった」と振り返る。ズシンとくるような重い球を投げ、スタミナもあったが、「あそこまでの投手になるとは思わなかった」という。
「そもそも、サボリのマツだったんだ」。練習後にグラウンド整備や道具の片付けをしていると、「あいつは我々を見ている。コラッと怒ると、エヘヘッと笑う」。
転機は高校2年夏の神奈川大会。自らの暴投でサヨナラ負けして甲子園出場を逃した。その直後に会ったとき、「マツ、サヨナラ暴投なんて格好いいじゃないか」と声をかけると、「来年は見てて下さい」と返してきた。
「横浜高校でいい指導者、いい仲間に出会い、いい経験をしたんだね。マツの才能はそうやって開花したんだ」(安藤嘉浩)