足立修監督に励ましの言葉をかける野球部OBの宮坂真一さん(左)=松本市の松商学園グラウンド
松商学園(長野)が第99回全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高校野球連盟主催)に出場する。夏の甲子園への9年ぶりの復活を喜ぶ1人が、92歳の宮坂真一・野球部OB会顧問=松本市在住。70年にわたり、後輩球児を見守り続けた大御所は7月31日、大阪入りを翌日に控えた選手たちを母校のグラウンドで励ました。
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宮坂さんは、今年の長野大会も松商球児のプレーをスタンドで注視した。地元の松本市で試合できるシード権の特典を得られなかったため、上田、諏訪、長野の全7試合に足を運んだ。
2007、08年に連続出場のあと、松商は夏の甲子園に出ていない。11年8月、「切り札」とされた足立修監督(53)が就任。だが、13年度のオフに上級生の下級生への相次ぐ暴力が発覚。あおりを受け、14年度の3年生は夏の長野大会に出場できなかった。
「あの学年は、それでも部員30人が1人も退部せず、黙々と練習して後輩たちに後を託した。あの姿勢が、新しい松商の原点です」と宮坂さんは言う。
当時、「野球部史上で最大の苦境かもしれない」と宮坂さんは懸念したが、「新生・松商」は15年春の選抜大会に出場。感激で目を潤ませる宮坂さんの姿が甲子園の内野席にあった。
その4月に入学してきたのが藤井大地主将ら今年の3年生だ。「今度は夏の花を見事に咲かせてくれた。この間、部員の生活指導からやり直して部を再建させた足立監督の努力も並大抵のものではなかった」と宮坂さんはたたえる。
明治大学野球部でマネジャーだった宮坂さんは戦後、帰郷して家業の会社経営を継ぐかたわら、日本学生野球協会の評議員や選抜甲子園の選考委員を長く務めた。その野球人生の出発点は戦時下の松商マネジャー時代にある。象徴は最上級5年生の1942年夏、「幻の甲子園」だ。
国家統制下の文部省主催の全国大会として甲子園で開かれ、選手権大会史からは除外されている。松商は静岡県勢との予選を突破して出場。選手は「選士」と呼ばれ、その記章には鉄カブト姿の兵士が描かれていた。戦局悪化の翌43年から敗戦の45年までは、この大会すら開かれていない。
31日、宮坂さんは選手たちに長野大会優勝のお礼を述べたあと、学徒動員も体験した戦時下の話をした。
「平和だからこそ野球ができる」。それは、夢舞台に臨む3世代も若い後輩への「歴史の重みも知った上で思い切りプレーしてほしい」という期待の表れであった。
今回も甲子園に出向き、見守る予定だ。(山田雄一)