開会式で行進する三本松の森本塁君(中央)=8日、阪神甲子園球場、林敏行撮影
8日、夏の甲子園が開幕し、球児たちは胸を張って行進した。祖父と父から、全国制覇の夢を託された選手。野球をしてほしいと名前に思いを込められた選手。甲子園への思いは、世代を超えて引き継がれる。
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■おじいちゃんに感謝
「おじいちゃんと同じ舞台に立てた」。三本松(香川)の森本塁(るい)君(3年)は大きく腕を振って行進した。
4年前に65歳で亡くなった祖父山川幸雄(さちお)さんは、51年前の第48回大会に初出場した興南(沖縄)の左腕エース。初戦の六回、死球を受け左手首を骨折。無念の退場を強いられた。米軍占領下の沖縄からの出場で、検疫のため甲子園の土は持って帰れなかった。
森本君の母奈々さん(41)は「私は4人姉妹で、父の好きな野球はしなかった。初孫の塁が生まれた時、父は本当に喜んでいました」と話す。「塁」という名前は、「野球をして欲しい」という幸雄さんの思いが込められている。
小学3年で野球を始めた森本君を、幸雄さんはかわいがり、誕生日にはバットやグラブをプレゼントした。一方で厳しく野球も指導。森本君は、「バットは内側から、しなやかに出せ」と言われた言葉を鮮明に覚えている。
香川大会の決勝戦。優勝が決まり、ベンチからマウンドへかけだした森本君は、右手の人さし指を立てて空に掲げ、「甲子園、決まったよ」と幸雄さんに報告した。
甲子園入りした今、幸雄さんが力投する写真と、生前にもらった手紙をお守りのように大切に持ち歩いている。「念願の甲子園。野球を教えてくれたおじいちゃんには本当に感謝している。勝ち進めば興南と当たることがあるかもしれない。おじいちゃんみたいに高校野球史に残る試合がしたい」(添田樹紀)
■孫が生まれた時に「100回大会へ」
天理(奈良)の小西幸希君(2年)は、父宏親さん(47)と祖父の故・勝さんも天理の選手として夏の甲子園の土を踏んだ。
勝さんは第44回大会(1962年)に出場。宏親さんによると、体格が良く、甲子園のことは「たくさんの観客が見ていて、いい緊張感の中で野球ができる」と語っていたという。
宏親さんは第69回大会(87年)の初戦で三塁打を放つなど活躍。「大歓声の中で野球ができる幸せを感じながら戦った2時間あまりは、何をしているか分からないほど夢中でした」
小西君が生まれたとき、勝さんは宏親さんに「この子は100回大会の時に3年生。野球が好きで続けられそうだったら天理で甲子園に出場してほしい」と言った。小西君を可愛がった勝さんだが、小西君が小学4年の時に亡くなった。
天理は2年ぶりの夏の甲子園。小西君は、「天国のおじいちゃんも『幸希、おめでとう。甲子園もがんばれよ』と言ってくれている気がします。あこがれの舞台を楽しんでいる姿を見せたい」と話した。(石本登志男)
■「夏も活躍を」テレビで応援
盛岡大付(岩手)の須藤颯(はやて)君(3年)の祖父茂之さん(71=横浜市港北区)は、武相(ぶそう、神奈川)の選手として第46回大会(1964年)に出場。初戦で適時打を放ったが、勝利はならなかった。
盛岡大付は春夏連続出場。選抜大会の際は、茂之さんは甲子園で須藤君が二塁打を放つ場面を見た。「あいつは柔らかく打っていた」。この夏は都合が悪く甲子園には来られないが「テレビでしっかり応援しています」。
須藤君の実家は横浜市。茂之さんは須藤君が盛岡大付に入学する際、色紙に「健康第一 おまけに甲子園」と書いて送り出した。「颯はおまけを二つもつけてくれた。こんな孝行はありません」
須藤君は茂之さんと甲子園の話をしたことがあるが、詳しい中身は覚えていない。「今度帰ったら、甲子園について話そう」と思っている。「そのためには、夏も活躍しないと」(寺沢尚晃)
■祖父は常々「甲子園楽しいぞ」
開星(島根)の山根良太君(2年)は、大会を思い切り楽しみたいと思っている。祖父の鷦鷯(ささき)清見さん(79)から常々、「甲子園に行けよ。試合が楽しいぞ」と言われてきた。
鷦鷯さんは米子東(鳥取)の選手として第36回大会(1954年)に出場。今もその時の写真を家に飾っているという。
甲子園を知る鷦鷯さんは山根君の目標で、夏休みや正月に会って野球談議に花を咲かせてきた。大会はテレビで観戦するという鷦鷯さんだが、「大観衆の中でプレーできるめったにない機会。夢の舞台を自分の目で見て、感覚を味わってほしい」と話す。今度会うときは、2人で甲子園話をするのが楽しみだ。(市野塊)