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「墓なんていらないと思ってた」弔い、慣習でなく自らで

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-2-25 11:43:47  点击:  切换到繁體中文

 

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朝日新聞デジタルのアンケート


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人は誰でもいずれ死を迎えます。それが家族の時、そして自分の時、お葬式やお墓はどうするのか。悲しみをどう癒やし、のこされた人に何を託すのか。2回のアンケートやこれまでの取材から浮かぶのは、葬送をめぐる現実的な問題や悩みと、死生観の変化、多様化でした。さらに考えるヒントを探ります。


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墓で語りかけ 得る慰め


お墓についての考え方はまさに人それぞれ。アンケートに寄せられた声の一部です。


●「幼い頃から毎年正月とお盆休みに我が家の先祖代々のお墓や親戚のお墓をお参りしてきましたが、その度に命の尊さやはかなさ、戦争の悲惨さを痛感し、最近では日本や世界はどうあるべきか考えるようになりました。先祖代々の誰がそこに居るか分かる形のお墓であるからこそ、このようなことを考えられると思うので、大変かもしれませんが、その我が家の伝統をこれからも長く守っていきたいと思います」(静岡県・10代男性)


●「過疎地に菩提(ぼだい)寺がありますが、お墓の維持を考える以前に町が存続できるかという不安が強いです。お墓は数十年先を見据えて考えるべきですが、その前に町が消えていたら何にもなりませんから」(広島県・30代男性)


●「自分に墓なんていらない、と思っていたが6年ほど前に父が亡くなり、三回忌を境に考えが変わった。墓がある、三回忌や七回忌をやる、仏壇に線香を手向けるという行為は、死者のためではない。生き残った者たちの心の慰めのためにあるのだ、ということである。もちろん人それぞれの宗教観(仏教とかキリスト教というくくりではなく、もっと根源的な所での)は違うから、絶対の答えはない。しかし人は死をなかなか受け入れられないものだと思う。私も、父がこの世からいなくなったことがいまだに信じられずにいる。結果、あの世にいるであろう父に語りかけるのに必要なのが墓であり、仏壇である。そこで慰められるのは自分の心以外の何物でもないということなのだ」(神奈川県・50代男性)


●「葬儀や墓のことを自分で決めておくことが当たり前になっています。私はそのことに違和感を感じています。亡き人をどう弔うかは、見送る側に任せてはもらえないでしょうか。昔から家を継ぐ人以外は自分のお墓を準備しましたし、墓碑に朱で名前を刻んでおくと長生きすると言ったとも聞きます。ただ今はエンディングノートを書き、全て決めておくことがブームのようです。それより私は良き生き方を大事にしてほしい。幾つになっても生きるために生きてほしい。死ぬために生きてほしくはない。亡くなった人の弔いは、生きている人たちが、その死を受け入れていくためのものだと思います。生きたようにしか、死ねない。良き人生の先を信じてください」(東京都・50代女性)


●「ここ数年実家の母とお墓を探していますが、父と母で望むお墓の形態が異なり、なかなか決まりません。認知症の父はもう母と話し合うこともできず、母はどちらの希望を採り入れるべきか悩んでいます。私は一人娘で既に嫁いでおり、両親のお墓を見られるのは恐らく私で最後。それも母の頭痛の種なのだと思います。一方で夫の実家の両親は既にお墓を購入し、『いずれはあなたたちも入る場所』と言いますが、夫も私も実はそこに入る気は全くありません。お墓自体に意味を感じないのです。檀家(だんか)制度の崩壊や少子化などによりお墓の意義も変わり、従来型のお墓は既に時代とマッチしなくなっているのだと思います」(東京都・40代女性)


●「身近な人間が亡くなるまでは、墓参りも仏壇に手を合わせることもしきたりに従うだけの行為でした。大切な人に逝かれた時、身の置き場のない悲しみと苦しさに、人目を避けて布団にもぐって泣き続けるわけにもいかず、仏壇とお墓の前はまさに身の置き場所でした。信心深くない自分でも救われる場所でした。子供たちはお盆や彼岸や法事を、気乗りしないイベントぐらいに思って付き合ってくれていますが、彼らも長い人生の中で大事な人に逝かれる経験が必ず来るはずです。『子供に負担を掛けたくない』との思いもありますが、大事な人を偲(しの)ぶための負担が人生の中にあっても良いのではと思います」(青森県・60代女性)


●「夫が大切に思っている先祖代々の墓があります。住んでいる所の近くにお墓を移しましたが、それなりの時間と手間とお金がかかりました。子どもはいますがその後は継ぐ者はいません。夫は誰かが何とかしてくれるだろうと思っているようですが、残される者の負担を軽くするにはどうすれば良いのか改めて考えさせられます。私自身は地球に生まれて地球にかえって行くだけだと思っているので、お墓にはあまりこだわりがありません」(鹿児島県・50代女性)


●「昨年、実家の墓を整理し、カードをかざして出てくる室内型に移転しました。私は配偶者の家の方に入る気は全くありません(嫌と言ってあります)。しかしながら、行けば外車がデンと置いてある実家の寺に常々疑問を持ち、お布施の額に疑問を持ち(かなりの額を納めていた母)、戒名代に疑問を持ち、何とかしておかねばと思いながら数年を過ごしていました。母は介護施設にいます。母にとっては本意ではないかもしれませんが、一人っ子の私がきちんとしておかないと他のものが困りますので、強い意志で実行しました。『お気持ちで』というのが一番困ります。私自身は葬式も戒名も法要もいりません。骨にしてもらうだけでいい」(神奈川県・60代女性)


●「墓や葬儀については、慣習ではなく個人の考え方が大事だと思います。私は、すべきことは死後ではなくお互いに生前にするべきだと考えます。子供たちには『私の死後に私の墓の前に来ても役に立てないから自分で勇気をもって行動しなさい』と言います。人の死に関して多くの慣習が存在する一方で宗教者や葬儀社の多くが心を忘れて商いに走り、それを正当化するために呪縛を使っているように思えます。彼らが恐れるのは、日本人の死生観が変わり自分の収入が減ることでしょう。彼らが本来やるべきことは人と心をつなぐことですが、それができない者は人の弱点を突くことで自分を守ります。私はこうなってしまった墓や葬儀を大事にはしません」(兵庫県・70代男性)


悲しみ共有 新たな形で 上智大学グリーフケア研究所長・島薗進さん


かつて、地域社会や家族といった共同体と宗教行事は重なっていました。日本の弔いの文化は、強力だったと思います。共同体が崩れてくると、従来の宗教行事にもあまり意味が感じられなくなる。でも、悲しみをわかちあう場がないと、のこされた人にはつらい。弔いの文化を違う形でどう引き継いでいくか、いまは模索の時期といえるでしょう。


本来、宗教は弔いだけを扱ってきたわけではありません。近代化で機能分化が進むと、たとえば教育は学校、福祉は専門家が担う。それがある程度うまくいったこともあり、宗教は個人の死後の救いという「私事化」に安住してしまった。社会が商業化、サービス業化すると、僧侶も葬祭業の雇われ人にみえ、実際そうなった面もあります。弔いのときだけの商取引なら、必要ないと考える人も増えるわけです。


弔いを納得いくものにするためにこそ、弔い中心から脱却し、住民との関係を組み直していこうという動きは、宗教界にも出てきました。カフェや子ども食堂のような集いの場を開く、災害支援やボランティアに関わるという例です。弔いが多様化したといっても、伝統的なかたちに信頼を感じる人は多いでしょうから、一つの方向性と思います。


まだ団塊の世代は家族が安定していましたが、今後は、子がいない、身寄りがない人がさらに増えます。「家の墓」は一定は維持されつつ、標準ではなくなっていくでしょう。そもそも代々の墓を守り続けるというのは近代になってからのあり方です。決まったやり方がゆらぎ、だれもが自らの死生観をもたざるをえない時代です。その探求が、人生を豊かに生きる糧にもなる。ただ、「終活」として自分の弔い方を生前に決める人もいますが、のこされる人のことも考えてあげてほしい。


地縁や血縁は希薄になっても、人にはつながりが必要です。高齢者が家族をこえて助けあう、そして最期は見送ってもらう。孤独な人がいたとして、その人を助けることでまた自らの孤独をいやす人がいる。新しいつながりは、自覚的につくらなければならない難しさはありますが、意義を感じる人は増えていると思います。(聞き手・山田史比古)


信仰持たない人にも向き合う 築地本願寺宗務長・安永雄玄さん


東京・築地本願寺の境内に昨年11月、合同墓を造りました。生前契約です。継承を前提とせず、過去の宗教宗派を問いません。“家”ではなく“個”による会員組織「築地本願寺倶楽部」に入ってもらい、合同区画は30万円から、6年間の個別保管後に合同区画で預かる場合は50万円から、32年間まで個別保管の後に合同区画は100万円から。入会金、年会費はかからず、永代使用なので無縁化する心配もありません。契約は3カ月で800件を超えました。


背景にあるのは家意識の崩壊です。特に都会には代々の家から離れた個人が多く、首都圏に住む人の60%が特定の信仰を持たないという調査結果もあります。その人々が抱える問題に向きあう必要があります。


一方、宗教意識は心の中に根深く残っています。経営コンサルタントの経験を生かし、経営大学院で人材マネジメントなどを教えていますが、特定の宗派を持たない20~40代の教え子が築地本願寺にお参りしたいと言います。本堂で念仏を唱え、法話をして、2時間案内します。宗教的なものへの違和感や拒絶反応はなく、むしろ飢えていると感じます。若者には新鮮なんです。


何のために生まれ、何のために死ぬのか。なぜ人を好きになり、別れるのか。合理的な答えは出ません。宗教は、その人の人生観を支え、新しい生き方の道しるべを提供します。若者の心にささります。寺とご縁を結ぶきっかけを作りたい。


そのための活動が今回の「『寺と』プロジェクト」です。銀座に「築地本願寺GINZAサロン」を開き、会員組織を設け、合同墓を始め、葬儀社や相続遺言の専門家を紹介するサービスを始めました。生前の安心、エンディングステージの宗教的な安心感を届けるのがコンセプトです。


人間は必ず死にます。どういう死に方をするのか、死んだ後どうしたいのか。ある意味、生き方そのものを問うことです。信仰心があつくなくても、死後の安心を得たいと思うのは根源的な欲求です。葬儀やお墓を考えることを通して、自らの生き方を見つめてほしいと思います。(聞き手・岡田匠)


「死」は「生」の延長線上に


昨夏、がんで81歳で逝った父の最期の3カ月間は、高齢の母に代わって入院先の近くに住む私が主に看病を担い、葬儀の手配もしました。病院から「いつ逝ってもおかしくない」と言われても、存命のうちに葬儀社には連絡しづらいもの。希望する「家族葬」の料金相場もわからずスマホで検索すると、一番上に出てきたのが流通大手の格安プラン約50万円。でも電話に出たオペレーターは「都内は私営の斎場も多く、上乗せ料金が発生します」。試算は表示価格の倍近くに膨らみました。多少割高でも気心が知れた夫の友人が営む葬儀社に頼みました。


そのころ、母が「互助会に30万円を積み立てたが、無かったものと考え、諦める」と言い出しました。聞けば、18年前に逝った祖父の葬儀はこの互助会のセレモニーホールで営み、総額400万円。うち60万円がその時までに母が毎月払ってきたお金だったのです。葬儀後も、互助会の外務員に「今後も続けて」と懇願され、月々3千円ずつ払い満期を迎え、10年以上そのままになっていました。「互助会で葬儀をあげれば出費がかさむ」と母はため息をつきます。


私は慌てて過去の新聞記事を調べました。すると、この数年で互助会の解約手数料が高すぎるとして返還を求める訴訟が起きていました。つまり解約して返金を求めることができるのです。しかし母は「そんな話は一切聞かなかったし、外務員は契約した日から何の音沙汰もない」。私は所轄する経済産業省に問い合わせ、解約手数料に関する業界団体の動きや改善に向けた行政の対応も調べた上で、互助会に電話しました。2カ月後、27万3550円が母の銀行口座に振り込まれました。


父の遺骨は生前の約束に従って、都内の母方の菩提(ぼだい)寺の墓に収められました。10人以上が埋葬されていますが、私も兄も妹も子どもがおらず、今後どうするのか、答えは出ません。葬送のスタイルは時代とともに移り変わります。お金が絡む話ですし、世代間では価値観も違う。それでも私は父の命が尽きるのを間近で見られたことで、死が「生きる」ことの延長線上にあると知りました。過度に死や死後を恐れる必要もないことも。これからも私なりのやり方で心を込めて父を弔っていきます。(高橋美佐子)



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