1939(昭和14)年当時の鳴海球場
全国的な野球ブームが到来していた昭和初期。「東海野球王国のメッカ」と呼ばれた球場がいまの名古屋市緑区にあった。高校野球の会場にも使われたが、経営難から約30年でその歴史に幕を閉じた。熱戦の舞台の面影はいまも地域に残る。
甲子園を凌ぐ広さ
名鉄鳴海駅から北東に約10分歩いた住宅街にある「名鉄自動車学校」。1959(昭和34)年の開校だが、前年までその場所は名鉄が経営する「鳴海球場」だった。地図を広げると、おむすび型の球場ならではの敷地跡がはっきりと見てわかる。
27(昭和2)年に名鉄の前身である愛知電気鉄道が建設。当時、愛知県内ではまだ野球場が少なく、名鉄自動車学校社史によると、土地住宅事業のため一帯を所有していた同社が当時の野球ブームを背景に整備したという。
建設当時、グラウンドは両翼106メートル、中堅136メートルで、いまの阪神甲子園球場(両翼95メートル、中堅118メートル)の広さを凌いだ。収容観客数は、最盛期約4万人だったという。
ベーブ・ルースもプレー
1930年代、鳴海球場は東海の「メッカ」と呼ばれるようになる。きっかけは高校野球にあった。
1915(大正4)年から始まった全国中等学校優勝野球大会(いまの全国高校野球選手権大会)で、31(昭和6)年からの3大会を中京商(現・中京大中京)が3連覇する。
鳴海球場は、愛知大会や東海大会の会場として使われた。地元住民で郷土史に詳しい酒井隆弘さん(74)は「東海の中心的な球場だったことが呼び名につながったのではないか」と話す。
34年にはベーブ・ルースを擁した大リーグ選抜チームが日本選抜チームと対戦したほか、36年には日本初のプロ野球試合である巨人軍対金鯱軍の試合が行われた。
だが、太平洋戦争で状況は一変する。全国中等学校優勝野球大会は中止になり、名鉄自動車学校社史によると、グラウンドは球場近くにあった高射砲の弾薬置き場になったという。
戦後、鳴海球場は高校野球の会場として親しまれたほか、中日ドラゴンズの本拠地になったが、48(昭和23)年に中日スタヂアム(後のナゴヤ球場)が完成して本拠が移ると、次第に経営難になり、58(昭和33)年10月に閉鎖した。
いまグラウンド跡地は教習所のコースになり、本塁跡には記念碑がある。スタンドの一部も自動車学校の事務所として使われている。酒井さんは「地域の大事な記録として語り継いでいきたい」と話す。
試合の日に響き渡った大歓声
鳴海球場の閉鎖から今年で60年。当時、熱気にあふれた球場の姿はいまも地域の人たちの記憶に残る。
愛知商業高校野球部(名古屋市)時代に鳴海球場で試合をした経験がある吉川博義さん(79)は当時、球場の大きさに圧倒されたと話す。3年生の時に愛知大会4回戦で伝統校の時習館と対戦した。「満員スタンドから応援の声が波のように押し寄せ、グラウンドにいてしびれた」と話す。
戦後、鳴海球場のすぐ脇で理容店を経営する仲村弘さん(83)は「試合がある日は歓声が地区に響き渡り、鳴海駅から球場をめざす人の列がすごかった」と振り返る。58年に球場が閉鎖した際、球場入り口の「鳴海球場」と書かれた石看板を、仲村さんの父が球場関係者から譲り受けたという。今手元に残るのは「球」の文字だけだが、仲村さんは「地域で愛された球場。大切にしたい」。(古庄暢)