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甲子園の歴戦の名将、選手で出場した時は足も震えた

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-4-3 10:20:02  点击:  切换到繁體中文

 

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握手する(左から)中村順司さん、衣笠祥雄さん、高嶋仁さん=東京都中央区、池永牧子撮影


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同世代トーク 1946年度生まれ


終戦の翌1946年度生まれの球児は、東京五輪があった64年が最後の夏。のちにプロで活躍した衣笠祥雄は平安(京都=現龍谷大平安)の4番捕手として甲子園で8強入り。智弁和歌山監督の高嶋仁も海星(長崎)から出場した。元PL学園監督の中村順司は大阪大会決勝で敗れた。(敬称略)


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衣笠 子どものころ、野球を一生懸命やったという記憶がない。2人はどう?


中村 ぼくは福岡県の炭鉱の町で育った。西鉄ライオンズの黄金期で、中間市は仰木彬さんの出身地。社会人チームもあり、自然に野球をする環境があった。


衣笠 九州は熱かった。


中村 稲尾和久さんの投げるマネをしたり。そういう中で野球を覚えていった。


衣笠 稲尾さんとは2軍戦で、1度だけ対戦させてもらった。ライオンズの背番号24というだけで、ウワーッと思った。うちも父親が西鉄のファンだったから。


高嶋 ぼくは長崎県の五島列島出身。小学校はソフトボールで、野球は中学から。顧問の先生は空手の専門家で、形を見せてくれた。みんなほれてもうて、この先生についていこうと。だから、チームワークがよかった。3年の時、長崎で優勝。次は甲子園に行きたいと思った。それで島を離れて海星へ進学した。


衣笠 ぼくも中学の野球部は仲良しチーム。顧問はテニスの先生で細かいことは言わない。先輩の技術を見て吸収した。それがよかった。その中で仲間ができた。3年のとき、京都市2位。西京極球場で試合をした。スコアボードを見たときは震えて甲子園の入場行進が思い浮かんだ。となると、京都の場合は平安。


中村 ぼくは小学6年でプロ野球選手になりたいと錯覚を抱いた。中学3年で浪商(現大体大浪商)の尾崎行雄さんと、法政二の柴田勲さんの投げ合いをテレビで見た。甲子園ってすごいなと知った。同じ大阪のPL学園に誘われ、そこでやればプロに行けるんじゃないかと淡い夢を持った。


衣笠 上手だったんだ。


中村 PLはまだ大したチームじゃなかった。ぼくは10期生。入学した春に初めて甲子園に出た。「人文字応援」の始まりだね。


高嶋 ぼくは投手で入学したから走ってばかり。グラウンドに入れない。夏休み明けには100人以上いた1年生が3分の2ぐらいに。これなら最後までやれるかもしれんと思った。


中村 PLは入学した春から3季連続で甲子園に出た。2年春の選抜大会は、ぼくも背番号14でベンチに入った。守備要員です。


衣笠 ぼくらの中で最初に出たんだ。当時「14」は1番下だね。


中村 ぼくは遊撃手だけど、打撃練習の先発投手だった。稲尾さんのマネで投げ方を覚えたのがよかった。肩を回して手を振る。


衣笠 体全体でね。


中村 1回戦は途中からサードを守った。ナイターになり、スポットライトを浴びてね。戸田善紀さんが21奪三振を記録した。


高嶋 松井裕樹(桐光学園)の22個までは甲子園最多記録だね。


中村 あの時、守っていたのがいい思い出。


衣笠 ぼくはやっぱり入場行進。名門といっても、選手は初めてだから。ドキドキだよ。


高嶋 ぼくも足が震えた。興奮状態で、舞い上がる暇もなかった。そのとき指導者になろうと決めた。2年の夏。1回戦は西宮球場やった。


衣笠 勝った?


高嶋 負けた。だから2年夏の甲子園は入場行進の思い出しかない。3年の夏は甲子園で試合ができた。センターを守っていたが、カーンと言ってボールが見えない。たまたま正面だったから、よかったけど。


衣笠 ぼくらは春は土佐(高知)、夏は高知に負けた。高知は4番の有藤通世(元ロッテ監督)がいなくて12人。勝てると思ったのがいけなかった。


中村 初戦で顔面に死球を受けたんだよね。


衣笠 我々世代のナンバー1は池永正明だな。下関商のエースとして2年春に優勝し、夏は準優勝。


高嶋 夏の甲子園練習がうちと入れ替わりで、ブルペンで投げるのを見た。ボールを投げるシュッという音が聞こえる。こんな速いボール見たことない。これは当たらんと思った。


衣笠 手首が柔らかくてムチみたいにしなった。


高嶋 体は大きくないけど、ええケツしとった。太ももがガチッとしている。


衣笠 色んなタイプがいるよね。ジャンボ(尾崎将司)も同学年。徳島海南で3年春の優勝投手だもん。彼はゴルフに行っちゃったけど、基礎を作ったのは野球だった。だから、我々の世代に名前をつけるとしたら「個性派世代」だろう。


中村 いいね。


衣笠 終戦翌年の生まれで人数が多い。競争が激しい。1回や2回ダメと言われてもへたらない。変わっているんじゃなくて、己を持っている。


高嶋 まったくその通りやね。


衣笠 あの桑田真澄、清原和博を1年から使いこなした中村さんも、強打のチームを作り上げた高嶋さんもそう。だいたい、右向けと言われたら、左向くやつが多いんだから。個性はその人がどれだけ努力したかの証し。だけど、入り口は一緒。基本だね。毎日の繰り返しが大切だよ。迷ったら帰るところ。それが基本。


高嶋 基本ていうのは単純よね。基本をきっちりやるからこそ応用が利く。野球に限らない。


衣笠 どう生きるか。人生の基盤を野球で学ぶ。


中村 ぼくらは高校で「球道即人道」と言われた。野球の中に人間社会の縮図がある。一つのボールを追うにもカバーリングがあり、すべて人生に通じる。


衣笠 今の子は少し野球を一生懸命やりすぎかな。監督が来ないと何をしていいか分からないらしいね。野球は楽しいもの。遊びの中から覚える。もっと野球を楽しんでほしいね。(構成=編集委員・安藤嘉浩)



〈1946年度生まれの高校球児〉 有藤通世(高知、元ロッテ監督)▽池永正明(下関商、元西鉄)▽内田俊雄(広島商、拓大監督)▽岡本道雄(高知、元同校監督)▽尾崎将司(徳島海南、プロゴルファー)▽田淵幸一(法政一、元ダイエー監督)▽藤原満(松山商、元南海)▽星野仙一(倉敷商、元楽天監督)▽基満男(報徳学園、元西鉄)▽山崎裕之(上尾、元西武)▽山本浩二(廿日市、元広島監督)



きぬがさ・さちお 平安で春夏甲子園ベスト8。プロ野球広島で2215試合連続出場を記録し、国民栄誉賞。引退後は朝日新聞でコラム「鉄人の目」を長く執筆。


たかしま・ひとし 智弁和歌山監督。自身は長崎・海星で甲子園に2年連続出場。智弁学園(奈良)から甲子園で監督通算64勝(優勝は夏2度、春1度)は歴代1位。


なかむら・じゅんじ 名商大総監督。PL学園2年春に甲子園出場。母校を率いて春夏連覇を含む甲子園優勝6度(春3、夏3)は歴代最多。通算58勝は歴代2位。




 

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