ポーランド時代の話をする森岡亮太=河野正樹撮影
バヒド・ハリルホジッチ監督の解任という激震が走ったサッカー日本代表。6月14日に開幕するワールドカップ(W杯)ロシア大会のメンバー選考は、後任の西野朗監督に委ねられた。前監督の手で代表に復帰したMF森岡亮太(27)=アンデルレヒト=のやることは一つ。憧れの舞台に立つために、今できることにベストを尽くす。
【特集】ザ・ロード
マリと引き分け、ウクライナに敗れた日本代表の3月のベルギー遠征を終え、森岡は自宅のあるブリュッセルに戻った。出場はマリ戦での65分だけ。得点もアシストもできなかった試合を振り返り、言った。
「W杯までの時間が、まだあると考えても、もう無いと考えても、実際に残された時間は変わらない。いかにポジティブに過ごせるかで、伸びしろは違う」
単なるきれいごとでは、ない。どん底に落ち、そこからはい上がってきたからこその言葉だ。
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2016年1月、J1神戸からポーランド1部のウロツワフに移籍した。「とにかく欧州へ」との思いから、当時舞い込んだ唯一の誘いに乗った。
ところが、言葉はほとんど通じず、監督の指示も分からない。対戦相手は身長180センチ以上の屈強な選手ばかりで、球を持てば体をぶつけられ、吹っ飛んだ。自信があったテクニックを発揮できない。結果を残せず、出場機会を失った。
「俺、なんでポーランドまで来たんやろ」。周囲の会話が、自分に対する悪口のように思えてきた。練習中に簡単なミスが続くようになり、パスを受けるのが怖くなった。練習へ行くのが嫌に。そんな日常を、夢でも見るようになった。
ぎりぎりに追い詰められたとき、親交のあるメンタルトレーナーにかけられた言葉を、思い出した。
「置かれた環境に感謝し、出来ることからやっていこう」
翌朝、練習場の駐車スペースに立っていた木に日光が当たり、反射する様子を見て、涙があふれそうになった。「きれいな景色に感動した。なんでいままで気づかなかったんだろうって。ちょっとしたことでもいいことを見つけて、感謝していこうと思った」
不思議と、狂った歯車がかみ合い始める。日本人の知人が、所属クラブのコーチと親しいことが分かり、それまで会話が無かった監督との話し合いの場を設けてくれた。知人が通訳として間に入ってくれ、監督との距離が縮まり試合に使われるようになった。地道に続けていた筋力トレーニングの成果が表れ、当たり負けしなくなっていた。チームの成績も上向いた。「考え方一つで、自分を良くも悪くも出来る。そういう思いに、あのとき行き着いた」
17年6月、レベルの高いベルギー1部ワースランドベベレンに移籍し、リーグ戦で7得点11アシストを記録。今年1月、リーグ最多34度の優勝を誇るアンデルレヒトに引き抜かれた。中心選手の証しである背番号10を付け、優勝を争うチームを主力として引っ張る。
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サッカー人生での目標が二つある。一つは、スペイン1部の強豪バルセロナでプレーすること。もう一つは、日本代表の一員としてW杯で優勝することだ。
14年、当時のアギーレ監督に初めて日本代表に選ばれたときは「呼んでくれるんだ」と驚きしかなかった。ベルギーでの活躍が認められ、17年秋、当時のハリルホジッチ監督に呼ばれ、約3年ぶりの代表復帰を果たしたとき、自身の受け止め方はまるで違った。「欧州に出なければあかんと思った自分の考えは正しかったと、答え合わせが出来た感じ。自分のレベルも上がり、代表でも余裕を持ってプレーできるようになってきた。代表に、いい結果をもたらしたい」
自身初のW杯出場に手が届くところまで来た。出場メンバー23人の当落線上が、森岡の置かれた立場だ。ここまでの道のりは最短距離か、遠回りか。そう聞くと、ほほえみながら首を振った。「そういうことを考えるのは、ポーランドへ行ってからやめた。最終地点に至るまでの過程に期待をして、それを下回るとネガティブになってしまう。準備してダメなら、それはそれで、しゃあない。最終的に目標へたどり着ければいい」
5月20日のリーグ最終戦までは所属クラブでの試合に全力を注ぐ。いまは、心の底から、そう思える。(清水寿之、河野正樹)
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もりおか・りょうた 1991年4月12日生まれ、京都府出身。久御山高(京都)から、2010年にJ1神戸入り。16年にポーランド1部ウロツワフに移籍した。17年にベルギー1部ワースランドベベレンに加入、今年1月に同国強豪アンデルレヒトに移った。日本代表は14年9月に初出場。通算5試合。180センチ、70キロ。