豊かな多文化共存、戦前に開花
30余の島々が透き通る濃い青「ボニンブルー」の広大な海に抱かれ、世界自然遺産にも登録される小笠原諸島(東京都小笠原村)は26日、米国から日本への施政権返還から半世紀を迎えた。現在の村役場がある父島に19世紀前半、欧米人や太平洋諸島の人々が移り住み、その後入植した日本人らと独特の文化を作り上げた。だが、平穏な暮らしは太平洋戦争で分断される。数奇な運命をたどった小笠原の歴史を歩く。
絶海の島、戦禍越え文化溶け合う 小笠原返還50年
戦争が島の絆を引き裂いた 「小笠原返還の歌」誕生秘話
亡き兄の夢を羅針盤に、たどり着いた小笠原 新島民は今
4月下旬、焼け付くような亜熱帯の太陽がまぶしい。この日、6日ぶりとなる「おがさわら丸」の入港で、島はにぎわった。父島の二見港に下り立つ観光客ら800人余りを、島民と太平洋に浮かぶ異国情緒が出迎えた。
寂しかった店先に新鮮な野菜や果物、肉が並ぶ。アメリカの名残か肉の缶詰「スパム」も。どこか異国的な男性が「昔は『Meはね』『Youは』と英語交じりで話す人もいた」と教えてくれた。「『どんがら』ってわかる? 『don’t get it』だよ」とも。「とり逃がした」「魚が釣れなかった」といった意味で使うそうだ。
小笠原諸島は2011年、固有の希少生物の豊かさから世界自然遺産に登録された。人が住むのは父島(2165人)と母島(464人)だけ。観光客は海に繰り出してダイビングや釣りを楽しみ、クジラやイルカを探す。一方で、戦跡を巡るツアーもある。
「小笠原は数奇な運命をたどった。その体験を語り継げる人も少なくなったね」と、村総務課長のセーボレー孝さん(60)。日に焼けた顔に、欧米系の雰囲気が漂う。「最初の移住者の5代目なんです」。島の人は米軍統治時代の名前「ジョナサン」と呼ぶ。
19世紀初め、欧米諸国はクジラを追って太平洋へ繰り出した。捕鯨基地として注目されたのが小笠原諸島だ。孝さんの自宅の庭から二見湾が見下ろせる。
「絶海の島にこの入り江があったから、海を越えて人々が集ったんだろう」。1830年6月、最初にたどりついたのが、祖先で米マサチューセッツ州出身のナサニェル・セーボレーだった。
20歳で海に出て、35歳の時…