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(1978年、高松商0―1仙台育英)
「0」がきれいに並んだスコアボードを、高松商の河地良一は見ていた。
「かっこいいな。漫画の主人公みたいだな」
第60回大会1回戦で力投する高松商のエース河地良一
1978年8月8日。午前9時に始まった仙台育英(宮城)との第1試合は、河地と大久保美智男(元広島)の両エースによる投手戦になった。九回では決着がつかず、延長戦に入る。
「正直、だいぶバテてはいた。もう投げられないとは言えないし、我慢しかないと思って投げた」
十三回、十四回……。それでも、1年の時からバッテリーを組む主将の堀雅一が「よし、この回3人で終わらせよう」と声をかけると、「よっしゃ」と応えて右腕は抑え続けた。
回は引き分け再試合も視野に入る十七回へ。ここで河地は連打を許し、初めて無死一、二塁のピンチを招く。バントで送られ1死二、三塁。バッテリーは本塁封殺を狙って敬遠、満塁策を選んだ。
敬遠のあとは、必ず抑える――。そんな自信が、2人にはあった。
1死満塁、打者は9番打者。「インコースは打たないだろうと計算した。河地のコントロールがあれば、抑えられる」と堀。1球目は胸元へ渾身(こんしん)のシュートが決まる。「この日のベストボール」と堀が絶賛すれば、河地も「気持ちがボールに乗った。あの試合で一番速い球だと思う」と振り返る。
2球目はスクイズを警戒して外角へ外した。そして、この日の205球目、堀は再び打者の内角へミットを寄せる。次の瞬間、悪夢は起きた。
高松商-仙台育英 十七回裏仙台育英1死満塁、打者嶋田の死球で、三塁走者がかえりサヨナラ勝ち。捕手堀
「あっ!」。河地が投げた瞬間、堀は思った。ボールはそのままの勢いで、打者のヘルメットに当たったのだ。押し出しの死球。サヨナラ負け。「まるでスローモーションのようだった。しーんとなって、すべてが止まったような感じ」
仙台育英に延長十七回の末に敗れ、涙をこらえる高松商の堀捕手
河地も、すぐには状況をのみ込めなかった。「すっぽ抜けたとかではない。真っすぐを投げた感覚で、たまたま頭にいった」。死球を告げる球審のコールを聞くと、涙があふれ出た。3時間25分の熱戦は、あっけなく終わった。
名門高松商のエースも、入学当初は目立った存在ではなかった。意識が変わったのは、2年夏だ。初めて立った甲子園の初戦で、1年生エースの坂本佳一を擁する東邦(愛知)に2―6で敗れた。「バンビ坂本相手にふがいないピッチング。練習しかない」。そこから励み、翌春の選抜大会で再び甲子園へ。牛島和彦、香川伸行の2年生バッテリーがいた浪商(大阪)に3―0で完封勝ちした。迎えた最後の夏。好投手として注目されて挑んでいた。「悲運のヒーローみたいやな」。試合後、河地はぽつりと言った。
高松商-仙台育英 試合に敗れ、ベンチ前に整列する高松商の選手たち
だが、「悲運」だけではなかった。2週間後、ひっそりと決勝を見に行くと、たくさんの観客に声をかけられた。高松に帰っても、何年たっても、同じだった。数十年後、長女が就職先の上司から「高松商のあの河地君と関係があるの?」と聞かれたという。あの夏の苦い思い出は、「私の財産。今もたくさんの人の記憶に残っているのはうれしいし、ありがたい」。
春2度、夏2度の優勝を誇る高松商は1996年の78回大会を最後に、夏の甲子園から遠ざかる。それでも、15年の明治神宮大会を制し、16年の選抜大会は55年ぶりに準優勝。古豪復活へ、兆しが見えてきた。
河地は高校卒業後、西濃運輸で野球を続けた。今は香川大医学部医事課で働く。妻は高松商の同級生で、娘も高松商出身。「高商の復活はうれしい。高商が出ると香川全体が盛り上がりますから」。かつての輝きを、後輩たちが取り戻してくれることを願っている。(野田枝里子)
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〈河地良一 かわじ・りょういち〉 1961年、高松市出身。高松商では1年秋からベンチ入り。3年夏の全国選手権大会は5番・投手で出場し、2安打。
高松商の河地良一さん
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〈堀雅一 ほり・まさかず〉 1960年、高松市出身。高松商で河地とバッテリーを組み、4番も経験。主将を務めた3年夏の全国選手権大会は6番・捕手で出場。現在は真英に改名。