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「打高投低」時代、南北巡った優勝旗 平成最後の熱闘へ

作者:佚名  来源:本站原创   更新:2018-8-1 6:10:24  点击:  切换到繁體中文

 

第100回全国高校野球選手権記念大会は30日、大阪桐蔭(北大阪)が猛打で、日大三(西東京)がサヨナラ本塁打で、慶応(北神奈川)が春夏連続で勝負を決めた。西日本豪雨で被災した岡山県からは創志学園が勝ち上がり、全国56代表が出そろった。節目となる今大会は「平成最後の夏」になる。この時代、高校野球はどのような歴史を刻んできたのだろうか。


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平成最初の夏、1989年の第71回大会は帝京(東東京)が初優勝した。決勝はエース吉岡雄二(元巨人など)が仙台育英(宮城)の大越基(元ダイエー)との投げ合いを制した。


その後、九州・沖縄勢が躍進する。第72回で沖縄水産が県勢初の決勝進出を果たし、2年連続で準優勝。星稜(石川)・松井秀喜(元ヤンキースなど)への連続敬遠が議論を呼んだ第74回は西日本短大付(福岡)が初優勝した。第76回決勝は初の九州対決で佐賀商が樟南(鹿児島)を破って頂点に立った。


松井秀喜を始め、メジャーリーガーも輩出した。


2003年の第85回は、決勝で敗れたものの、東北(宮城)のダルビッシュ有(カブス)が躍動。第87回で駒大苫小牧(南北海道)の田中将大(ヤンキース)が好投を見せ、連覇を果たした。東日本大震災が起きた11年、第93回で日大三が夏の頂点に。この大会で花巻東(岩手)の2年生エース大谷翔平(エンゼルス)が最速150キロを記録した。


96年の第78回は「奇跡のバックホーム」を見せた松山商(愛媛)が制し、初めて大正・昭和・平成の3時代で優勝校となった。一方でこの時代、優勝旗は北から南まで巡った。駒大苫小牧は04年、北海道へ初めて深紅の大優勝旗を持ち帰り、興南は10年、沖縄勢悲願の全国制覇を、春夏連覇という形で果たした。昨年は花咲徳栄(はなさきとくはる)が埼玉県勢初の頂点に。99回の歴史で28都道府県が優勝を経験しているが、平成で初めて優勝校を出したのは5道県(北海道、群馬、埼玉、佐賀、沖縄)になる。


平成は「打高投低」の傾向が色濃くなった時代と言える。


第99回までの通算本塁打数は1597本。そのうち平成に入ってからが951本で、約6割を占める。筋力トレーニングの高度化や打撃練習用マシンの普及で「打」の進化が続いた。


01年の第83回を制した日大三は6試合で打率4割2分7厘と当時の記録を塗り替えた。一方、この年の秋から打球が飛びすぎる金属製バットを規制するため、900グラム以上のバットの使用が義務づけられた。1大会通算の犠打飛の数は89年が237だったが、昨年は185と減少。送りバントより積極的な打撃が主流になりつつある。


打撃力が向上した一方、複数投手の起用が定着した。平成に入って1人の投手が全試合を投げ抜いて優勝したのは、92年の西日本短大付・森尾和貴と、94年の佐賀商・峯謙介しかいない。


トレーニングの方法も科学的になり、休養の大切さを重視するなど、球児を取り巻く環境は変わった。高野連と朝日新聞社が実施した5年に1度の実態調査で、「食事指導を行っている」と答えたチームは、03年は56%だったのが今年は70%と増えている。


90年代以降、けが予防のため、甲子園出場投手の肩・ひじ検査を実施するようになったほか、00年に延長の回数制限が十八回から十五回と短くなり、今年から十三回以降はタイブレーク制が導入された。打者のエルボーガード、レッグガードも使えるようになり、安全向上が図られてきた。


また、選手が動画で投球・打撃のフォームを確認するなど、デジタル技術の活用も広がっている。今春の選抜大会に出場した膳所(滋賀)は、データ分析を専門とする部員が注目を集めた。(辻健治)



 

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