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(1984年1回戦、境0―1法政一)
その試合、唯一許した安打がサヨナラ本塁打となり、敗退が決まった。
1984年8月11日。境のエース安部伸一は延長十回2死まで、法政一(西東京)に対して無安打無得点の快投を続けていた。安部は「奇跡です、奇跡。野球の神様が笑ってくれた。野球人生でナンバー1の投球」と振り返る。ただ、こうも続けた。「ぼくが余計なことをしてしまったから、気がひけるんです」
延長十回2死、サヨナラ本塁打を打たれた境・安部伸一(右)
母校のグラウンドは、イワシやカニが豊富に水揚げされた境港の目と鼻の先にあった。魚のにおいと隣り合わせで、境の球児は白球を追った。中堅・花島(旧姓戸田)佳克は「マグロがよくとれる年は、境の野球部はよく打つって言われていました」。その年もマグロは大漁。地元の言い伝え通り、打線はふるった。鳥取大会は5試合全てを8得点以上挙げて勝ち上がった。左翼・山口敦弘は「練習試合でもほとんど負けたことはなかった」と言う。
当時、境は「やまびこ打線」として名をはせた徳島・池田のような打のチームを目指していた。トレーニングは過酷だった。スクワット千回、10キロの砂袋を背負ってのランニング……。足腰が鍛えられ、バットがよく振れた。花島は「無意識に体が反応した。鳥取大会は余裕で点がとれた」。
だが、法政一戦は違った。右下手投げの岡野憲優の球が予想以上に遅く、かつ微妙に変化していた。九回まで単打4本。花島は「いつもと違った。点が入らなくて、何か嫌だなという雰囲気だった」。
対照的に安部は好投を続けた。制球が悪く四球で自滅していた投球を補うため、高2の秋に習得したスライダーが生きた。安部はこの球を、スピードを持ちつつ大きく曲がることから「カーブとスライダーの間で、スラーブ」と呼ぶ。この球に法政一は「まんまとひっかかってくれた」。
境の中堅手だった花島(旧姓戸田)佳克さん。最後の本塁打は「おっかけたけど、はるか上だった」
相手打線は途中からバスターをするなど、どうにか捉えようとしてきた。が、つかまらない。この球種を8割投じて九回まで9奪三振、無安打。四球は「1」だった。
延長突入が決まると、アルプスが安部の偉業にわいた。「六回ぐらいから自分もノーヒットノーランに気付いていたし、意識もしていた。けれど、あまりの大歓声にぶるっと寒気がした」。練習試合も含め、被安打0はなかったことだ。
十回裏も三振、二ゴロと7球で2死までこぎつけた。末野芳樹に対した場面で捕手・片岡史雄が要求したのがカーブ。この試合ではほとんど投げていなかった。安部は「すっぽ抜けるから嫌だ」と首を振った。選んだのは「スラーブ」(スライダー)。外角低めの要求に対して、しかし、球が浮いた。
境の左翼手だった山口敦弘さん。「一番記憶に残っているのは、最後の場面。見送ったのが私と戸田(花島)ですから」
それまで外野フライはわずか三つ。久しぶりの打球が花島と山口の間に舞い上がった。追いかけたが、すぐに諦めた。花島は「はるか上だった」。山口も「今でもまだカーンという響きを覚えている」。
左中間のラッキーゾーンの深い位置へ打球が落ちた。2人は一瞬目を合わせたが言葉を交わさず、整列に向かった。試合が決したにもかかわらず、マウンドの安部は次の投球をしようとロージンを触っていた。
安部は「打たれた瞬間、入ったなとは思ったんですよ。でも終わったとは思わなかった。十回まで投げていてサヨナラ本塁打で試合が終わるというのは投手心理としてはない」。球数は124。宿舎に戻ると一気に節々に痛みが出た。
延長十回2死まで、無安打無得点だった境・安部伸一
あれから30年以上が経った。花島が「なんで打てんかったかな」と言えば、山口も「不完全燃焼。これだけ打撃を磨いてきたのに」と言う。安部は「かえって申し訳なくてね。いつもと違ったから、みんなも調子が出なかったのかな」。ほろ苦い思い出とともに互いを思いやる心は、球児の時と変わらず健在だった。(藤田絢子)
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花島佳克(はなじま・よしかつ) 1967年、鳥取県境港市出身。旧姓戸田。66回全国選手権は1番中堅で出場。89回大会では監督として境を甲子園に導いた。
山口敦弘(やまぐち・あつひろ) 1966年、鳥取県米子市出身。66回全国選手権は6番左翼で出場した。2017年の14回マスターズ甲子園で久しぶりに聖地に戻る。
安部伸一(あべ・しんいち) 1966年、島根県八束町(現松江市)出身。境卒業後は三菱重工三原に進み、4年間投手としてプレーした。