兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場は完成当初から毎夏、朝日新聞の航空機による撮影が行われてきた。これらの写真には周辺の街並みの変わりようも記録されている。第100回全国高校野球選手権記念大会は2日午後に抽選会がある。5日の開幕を前に「聖地のいま」をとらえた。
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東に武庫川が流れ、北には六甲山地。1日に上空から眺めた甲子園は都会のオアシスのようだった。ビルと住宅がぎっしり詰まった市街地が白っぽく見え、都市をつらぬく大動脈の阪神高速道路は灰色だった。その中で、芝の緑と土の色がひときわ目を引いた。
甲子園球場が完成したのは大正デモクラシー期の1924年。ここは以前、枝川という武庫川の支流が流れていた。武庫川で水害が続いたため、兵庫県は枝川を閉め切ってできた約70万平方メートルの河川跡地を阪神電鉄に売却。堤防の補強工事の費用を捻出した。
阪神電鉄は、スポーツ施設を核にした新興住宅地の開発を進めた。計画の旗振り役だった同社の三崎省三専務は、武庫川をハドソン川やテムズ川に見立てる構想を持っていたという。その念頭には、少女歌劇を看板に沿線で宅地開発を進めるライバル、阪急電鉄の存在があった。「甲子園開発の早々に野球場の建設を選んだのは、こうした阪急への対抗心がその背景にあった」と「阪神電気鉄道百年史」は述べる。
米国でニューヨーク・ジャイアンツの本拠地だったポログラウンドや、23年4月に完成して「世界一」と称されたヤンキースタジアムを参考に、当時、東洋最大の球場「甲子園」が建設された。完成直後の24年8月に開かれた第10回大会から満員が記録されたが、当時の空撮写真を見ると、周辺には広い田畑が残っていたことが分かる。
34年には第20回大会を記念し、球場の北東に初代「野球塔」が建設された。古代円形劇場を模した直径約40メートルの台座に20本の列柱と高さ34メートルの塔が立ち、柱に歴代優勝校名と選手名を刻んだ銅板がはめ込まれた。だが、塔は戦災で壊れ、銅板の多くは旧軍へ供出された。
敗戦直後、球場が米軍に接収された時期をへて、戦後復興期に周辺の街並みも大きく変容した。住宅が増え、58年には球場の北側をかすめて国道43号が整備された。さらに、その真上に阪神高速3号神戸線の高架が建設された。95年に起きた阪神大震災からの復興も進んだ。戦前の田園風景は消え、山麓(さんろく)まで開発が進んだ。戦後早い時期にあった海側の旧海軍鳴尾航空基地の滑走路の跡には、学校やマンションが立ち並ぶ。
空から見た「聖地」周辺は、同じ地点とは見まがうほど姿を変えたが、甲子園の観客をわかせる球児たちのはつらつとしたプレーは今夏も変わらないだろう。(河原一郎、編集委員・永井靖二)