1998年7月28日、横浜スタジアム。2時間20分の戦いが終わった。横浜の選手は松坂のいるマウンドに駆け寄り、桐光学園の選手は雲一つない夏空を見上げていた。
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選抜を制し、春夏連覇に挑んだ横浜は、第80回記念東神奈川大会の決勝で、初優勝を狙う桐光学園と対戦。大会を通じ唯一の失点をこの試合で許す。だが、先制本塁打を放つなど5打数3安打と打撃で活躍。被安打5で抑えきった松坂は、最後の打者を空振り三振にうち取ると、両手で小さくガッツポーズした。
その後の甲子園では、延長17回の激闘となったPL学園戦やノーヒットノーランを達成した決勝など、数々の伝説とともに選手権大会を制した。
新チームが発足した97年秋からの公式戦44連勝無敗はいまでも高校球史にまばゆく輝く。だが、この大記録は、松坂が2年生の秋早々に、幻に終わっていたかもしれない。
「ある意味、唯一負けそうだった試合で、神奈川で一番思い出深い」。松坂がそう振り返るのは、2年生秋の県大会初戦の藤嶺藤沢戦。試合は3点を先行するも、七回に同点に追いつかれた。
当時の藤嶺藤沢監督・山田光雄(60)は、スクイズの構えや走塁で揺さぶる作戦を立て試合に臨んだ。前年の夏、松坂のワイルドピッチでサヨナラ負けした神奈川大会準決勝の横浜対横浜商戦で見つけたバッテリーの盲点を、山田は突こうとしていた。
山田らによると、七回表、横浜は適時二塁打とスクイズで1点差に詰め寄られた。「球場の雰囲気が一気に変わり、横浜の選手の焦りを感じた」。1死三塁から再びのスクイズの構えにバッテリーの呼吸が合わず、松坂の投げた球は球審のプロテクターに当たった。ボールがマウンド後ろまで跳ね返る。その間に三塁走者が生還し、同点に追いつかれたという。
八回裏に挙げた1点を守り、4―3で競り勝ったこの試合の「ダメっぷり」を、松坂はいまだに忘れられずにいる。やること全てが裏目に出た。当時の監督・渡辺元智(73)や部長・小倉清一郎(74)にも激怒された。「一つプレーが違えば、僕らはあそこで負けていたかもしれない」
小池正晃(38)や後藤武敏(38)など、のちにプロにいった同級生も早くからレギュラーとなり、県大会で優勝するのは当たり前だと思っていた。あの試合で初戦がいかに大切かを痛感した。「藤嶺藤沢戦があったからこそ、1試合1試合の戦い方の意識が変わって、チームが一丸になれた」
藤嶺藤沢の主将・日野幹雄(38)は、抽選後「あの松坂とやれるんだ」と、対戦を心待ちにした。「松坂選手は、苦しみながらもいまも活躍していて、めちゃめちゃうれしい。思い出に残る試合に挙げてもらえて、松坂世代として誇りに思う」
松坂が甲子園を沸かせてから20年が経ち、この夏、100回大会を迎える。「僕らのときも80回記念の節目の大会だった。余計に印象に残っている」とあの夏を振り返る。
「選手として 人として 大きく成長させて もらった場所」。それが、松坂にとっての高校野球だ。
平成最後のこの夏。平成の怪物を生んだ神奈川の高校野球は、どんな景色を見せてくれるのだろうか。=敬称略(鈴木孝英、神宮司実玲)
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まつざか・だいすけ 1980年9月生まれ。右投げ右打ち。183センチ93キロ。東京都江東区出身。横浜に進学し、3年時に甲子園で春夏連覇を果たすなど、新チーム結成から公式戦44連勝無敗に貢献する。1999年に西武ライオンズに入団。1年目に新人王、最多勝、ベストナインを受賞。06年に大リーグ・レッドソックス入りし、07年は15勝を挙げ、ワールドシリーズ制覇に貢献。優勝した2006年、09年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でMVPに選ばれる。
15年に日本球界に復帰し、今季中日ドラゴンズに入団。4月30日にプロ野球で12年ぶりの勝利投手となった。