18日午後1時から日大三(西東京)と対戦する下関国際(山口)。選手たちが宿泊しているのは昔ながらの老舗ホテルだ。験を担いだ料理を提供するなど人情味あふれるおもてなしで、快進撃を支えている。
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下関国際が泊まる中寿美(なかすみ)花壇(兵庫県西宮市)。この日の朝は「粘り勝つ」と願った納豆、「勝利をめざす」とかけたメザシが並んだ。
2回戦の3日前、夕食には「敵に勝つ」とかけ、ステーキとトンカツを盛った「テキカツ」が振る舞われた。サシ(脂)がしっかり入ったステーキは外はカリッと、中はジューシー。トンカツもサクサクだ。球児たちは白米とともに勢いよくかっ込んだ。
勝利を願って提供されるが、消化にも気を配り、試合直前は避ける。「甲子園に来たのだから、思い出に残れば」と3代目社長の北垣博規さん(38)。こうした験担ぎは70年ほど続き、初日や試合当日の朝にはタイも出している。
中寿美花壇の客室数はわずか15。終戦直後は甲子園のそばで営業し、出場校を受け入れていた。当初は各学校が手配したが、代表校が決まるのが大会直前のため宿側が混乱。32年前からは、山口県高野連が確保している。
幼いころの博規さんにとって、やってくる球児たちは親戚のお兄さんのような存在だった。一緒にトランプで遊び、チョコももらった。宿に来た追っかけの女の子たちに、サインを受け渡したこともあった。
博規さんには忘れられない一戦がある。1987年の東海大山形―徳山(山口)戦。7歳の博規さんは家族とスタンドで見た。1点リードした八回終了後、車のラジオで続きを聞いた。九回2死三塁、打球が投手前へ。「勝った」と思った瞬間、どよめいた。一塁への送球がそれて同点、適時打で逆転された。
宿に戻った選手たちは泣いていた。何と声をかければ良いんだろう。もう遊んでもらえなくなる。そう思いながら見つめた記憶がある。
博規さんは元々、家業を継ぐつもりはなかった。20歳のとき、母美智子さんが交通事故で亡くなった。そのとき父龍平さんも入院していた。「自分がやるしかない」と決めた。何もかもが手探り。朝、フロントに立つことを忘れ、宿泊客が料金を払わずに帰ったことも。休む暇もなかった。
2014年、龍平さんが急死。近所の宿もほとんど廃業した。利用していた出場校の多くが、最近は市外のビジネスホテルなどに流れている。
球児の受け入れは予算には見合わないことも多い。ただ、母が亡くなったと聞きつけて線香を上げにきた監督や、関西の大学を受験したり就活したりする際に泊まってくれた元球児もいた。「少しでも球児が前向きになれば。これはうちのプライドです」と話し、4強入りをかけて戦う下関国際へエールを送った。
「心の中では全国制覇を願いながら、おいしい食事をつくって待っています」(藤野隆晃)