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「泣ける」「感動する」――。そんなキャッチフレーズがあふれている。政治家は怒りや敵意をむき出しにし、天皇陛下が退位の意向をにじませた「お気持ち」に国民の多くが共感した。私たちの社会を「感情」が支配してはいないか。私たちは「感動」にどう向き合えばいいのか。『感情化する社会』(太田出版、2016年)の著者でまんが原作者・批評家の大塚英志さんに聞いた。
体罰の代わりが「みんなで感動」 涙が統治する日本社会
批評家の大塚英志さん=山本和生撮影
――社会の至るところで、感情がむき出しになっているように見えます。
「感情によって共感し、非言語的な関係を作っていくというのは、近代以前の社会から普遍的にあったものです。むしろ、言語的なコミュニケーションで他者と理解しあうということの方が近代の新しい作法ですよね」
「よく学生たちに、『近代とは何か』と説明するときは、こんな話をします。近代以前の小さな村で、田んぼのあぜ道を向こうから誰かが歩いてきたら、名前どころか、その家が田んぼを何町歩持っていて、じいちゃんやばあちゃんが誰かまで全部わかっている。その人は誰なのか、いちいち『理解』をする必要がないわけです。ところが、近代に入ってその村を飛び出して、都市のような新しい場所にやってきたら、下宿で隣り合った人や街ですれ違った人は誰かわからない。それは、実は怖い。もしかしたら、ポケットの中にナイフを忍ばせていて、いきなりあなたを殺すかもしれない、という恐怖が潜在的にある。その嫌な感じが『他者』なんです。近代とは他者への恐怖を抱え込む時代です。でも、『じゃあこっちも同じようにナイフを持って』というのはやめよう、そこで、お互いに相手が何を考えてるのか、言葉と言葉で理解し合おうという社会のルールが生まれる。わかりやすく言うと、それが『近代』なんだよね、と」
「ただ、近代になっても、感情と感情の非言語的コミュニケーションはなくなったわけではありません。『何なにするのに言葉はいらない』的な言葉があるように、言葉で丁寧に理解するのは面倒くさいんですよ。そして、言葉で丁寧に理解し合う『やり方』が不在なまま、感情による共感がコミュニケーションに対し支配的になる。そうやって、人々がお互いに感情でつながることを求め、その感情が社会を動かす最上位のエンジンになる状態を『感情化』と呼んでいます。そうなると、合理とか論理のような感情以外のコミュニケーションは意味をなさない。例えばフェイクニュースはある人々にとって気持ちがいいわけです。だから共感を呼ぶ。そこでファクトチェックし事実を示しても感情が勝ちますから、説得力はないわけです」
――共感や感動は、なぜ浮上してくるのでしょうか。
「さっきいったように、言葉によるコミュニケーションより楽だからですよ。言葉によってきちんと他者と対話する約束事の上に社会を作っていくことに関して、多分この国は近代を通じてサボってきた。そのツケやほころびが、『感情化』で、今に始まったことではない」
「ひと世代前の若者が使った『空気を読む』という言い方がありますが、『空気』って言葉のこのような語法自体がかつての戦時下に、世論操作のために『空気を醸成する』のような使われ方で広がったもので、この国が自ら醸成した空気にあらがえず非言語的なコンセンサスであの戦争に突っ走っていったわけでしょう。じゃあ、当時の日本人たちが言葉や論理を軽視していたかって言ったら、実は全然違う。思想としての是非はともかく、大政翼賛会などのプロパガンダに関わった人々は極めて論理的で精緻(せいち)な言葉を使い、それに基づく宣伝戦略を立てている。戦時下はメディア理論や論理的な思考が一方では発達した。大政翼賛会は国家と国民の協力体制、つまり『協同』による戦時総力戦体制を構築しよう、と新体制運動をしたわけですが、そもそも近衛文麿首相による近衛新体制の思想統制の軸の一つは軍事・産業だけでなく、あらゆるもの、生活に至るまでの科学化、合理化ですよ。よく、戦後、アメリカの持ち込んだ合理主義のおかげで、日本人の美徳が消えた的な言い方をするけれど、そうじゃない。しかし一方で戦時下、非言語的なコミュニケーションみたいなものが優位に進む。まあ、感情の同一化を導くプロパガンダ理論が高度に発達したこともありますが、基本『楽だ』が大きいと思う。考えないのは『楽』なんです」
――日本では、「公共性」を作ることに失敗したと指摘されています。
「日本だけじゃないですけども…