広島に原爆投下した米軍爆撃機B29「エノラ・ゲイ」。機首の脇に機体名が記されていた=2018年11月3日、米バージニア州シャンティリー、西村悠輔撮影
太平洋戦争末期、日本全土が標的となり、大規模な無差別爆撃が繰り返された。空襲による民間人の死者は少なくとも40万人以上、米軍が本土に投下した爆弾は約16万トンとされる。
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じゅうたん爆撃、東京大空襲を皮切りに
広島、長崎と並ぶ大きな被害となったのが、1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲だ。約300機のB29爆撃機が33万発の焼夷(しょうい)弾を投下。人口密集地帯だった東部の下町は火の海となり、10万人近くが犠牲になった。被害家屋は約27万戸、推計100万人が焼け出されるなどした。
大阪へ焼夷(しょうい)弾を投下するB29爆撃機。画面右が大阪城と中之島=1945年6月1日、米軍撮影
編隊を組んだB29が低空から隙間なく焼夷弾を落として街全体を焼き払う「じゅうたん爆撃」の始まりだった。
3月12日には名古屋、13日には大阪、17日は神戸と、大都市が軒並み空襲を受けて壊滅状態に。次第に地方都市も標的となり、空襲は全土へと広がっていった。
真珠湾攻撃から4カ月、初の本土空襲
米空母「ホーネット」から飛び立つB25爆撃機。日本本土に対する初めての空襲となった。指揮官の名を取って「ドーリットル空襲」と呼ばれる=米軍撮影
米軍による初めての日本本土空襲は、日米が開戦した真珠湾攻撃からわずか4カ月後の1942年4月18日にあった「ドーリットル空襲」だ。空母から飛び立ったB25爆撃機16機が東京、横須賀、川崎、名古屋、神戸などを襲った。その後、米軍は「超空の要塞(ようさい)」と呼ばれた、当時としては最大級の爆撃機B29を完成させ、1944年に実戦投入。6月16日、中国・成都の基地を飛び立ったB29が初めて日本本土を爆撃した。北九州の八幡製鉄所を狙って高高度から爆弾を落とし、300人以上が犠牲になった。
米軍は7月、マリアナ諸島のサイパン島を日本から奪い、周辺の各島に飛行場の建設を進めた。B29の航続距離は6千キロ。成都からだと九州北部までが限界だったが、東京から約2400キロのサイパンを拠点にすれば、日本全域を攻撃目標にできた。11月から、本土空襲が本格化していった。
北マリアナ諸島サイパン島内には、観光客や島民がふだん行き交うところに旧日本軍の九五式軽戦車の残骸があった=橋本弦撮影
精密爆撃から無差別爆撃へ
当初の空襲は、軍需工場や港などの軍事拠点を狙った「精密爆撃」。昼間に、高射砲を避けて1万メートルの高高度から爆弾を落としたが、風で流されるなどして攻撃目標を外れることが多く、目立った戦果は挙げられなかった。
45年1月、欧州戦線でドイツの都市への爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将がマリアナ諸島を基地とする第21爆撃機軍団の司令官になる。早期終戦を目的に、日本の厭戦(えんせん)気分を高めるため都市への焼夷弾攻撃を求める軍上層部の意向を受けて着々と準備を進めていった。そして、3月10日の東京大空襲をきっかけに、民間人を巻き込む「無差別爆撃」が繰り返されるようになった。硫黄島や沖縄の占領後は戦闘機による銃爆撃も始まり、空襲は、北海道を含む全土が対象になっていった。このうち、広島と長崎の原爆を除く通常爆弾や焼夷弾、銃撃による空襲の死者は20万人を超えるという。ただ、正確な数字を把握している自治体は少なく、国による実態調査も不十分なため、全容はいまだ明らかになっていない。
日本の対中戦術「米が進化させた」
空襲の歴史について語る軍事評論家の前田哲男さん=埼玉県ふじみ野市の自宅
軍事評論家の前田哲男さん(80)は6歳の頃、現在の北九州市戸畑区に住み、空襲を体験した。夜に警戒警報が鳴り、家族と庭に掘った防空壕(ごう)に飛び込んだ。外を見ると、八幡製鉄所が狙われているのだろうか、探照灯の光が夜空を切り裂き、高射砲の音が聞こえた。「B29だ」。防空壕の湿った土の臭いとともに記憶に残る。
長崎の民放記者を経て、核問題への関心を深めた。フリーとなり、マーシャル諸島の核実験場を取材。その後、著した「戦略爆撃の思想」では、空からの無差別大量殺戮(さつりく)という視点にこだわった。
スペイン内戦に介入したナチス・ドイツによる1937年のゲルニカ爆撃、そして38年から日本軍が始めた中国・国民党政府の臨時首都・重慶を狙った爆撃を、東京大空襲につながる都市への無差別爆撃の先例と位置づけた。特に、重慶爆撃は43年まで続き、200回以上の空襲で約1万2千人が犠牲になったとされる。
重慶爆撃に使われた日本海軍の巨大爆弾
「都市そのものを爆撃対象とみなし、戦闘員と非戦闘員の境界を取り払った戦略爆撃の思想を確固たるものにしたのが日本軍で、その戦術を進化させたのが米軍だった」。ボタン一つで爆弾を落とせる空からの攻撃は、肉体と肉体のぶつかり合いを伴わない分、人を殺したという実感がわきにくい。爆弾を落とされた側への想像力の欠如が、行為をエスカレートさせたとみる。
ドローン爆撃、戦争はより無機質に
爆発から1時間以上経過した広島上空に広がるキノコ雲。手前は瀬戸内海。アメリカから日本に返還された原爆被災資料=米軍撮影
焼夷弾によるじゅうたん爆撃は、やがて原子力爆弾の投下へとつながる。そして今、ドローン(無人機)の登場によって兵士は画面越しに爆弾を落とすようになり、戦争はより無機質なものへと変容した。無差別爆撃の負の連鎖は、戦後70年余を経ても止まらずにいる。(石木歩)
【キーワード】「超空の要塞」B29爆撃機
太平洋戦争末期、日本上空に飛来し、多くの焼夷(しょうい)弾や爆弾を投下した米軍の大型戦略爆撃機。全長約30メートル、幅約43メートルあり、エンジン4基を備え、「超空の要塞(ようさい)」と呼ばれた。高度1万メートル以上を飛行でき、航続距離は6000キロ以上で、最大約10トンの爆弾を搭載。広島に原爆を落としたエノラ・ゲイ、長崎に原爆投下したボックス・カーも同じB29だった。
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