21世紀枠で初出場を果たした富岡西(徳島)は、26日の第3試合で、選抜大会で全国最多タイの優勝4度を誇る伝統校・東邦(愛知)と対戦。惜敗したものの、選手が主体的に動くことを目指す「ノーサイン野球」を、あこがれの地でも実践した。
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「甲子園でもノーサインで行く。メガホンはもう使わない」。小川浩監督(58)はそう言って選手を送り出した。
試合中は、すべて選手がプレーしながら考え、判断する。六回、死球で出塁した一塁走者吉田啓剛君(3年)と打者安藤稜平君(同)が、3球目でヒットエンドラン。打球はお手本のように一、二塁間を抜けて、同点に追いつくきっかけをつくった。吉田君は「二人の頭の中には走って打者が対応するというイメージがあった。自分たちの野球が甲子園でできた」。安藤君は「事前の打ち合わせはなかったが、吉田が走る可能性があるなと頭の中にあった。走ったのが見えたので、右方向に打った。とっさの判断。うまくはまってうれしかった」。その後も自分の判断で盗塁を決めた。
昨秋の四国大会でもスクイズを決めている。安藤君は「失敗もあるが、自分で考えて決めることでプレーの質も上がる」と自信を見せる。
実戦形式の練習を繰り返し、実際にしたプレー、次にするべきプレーについて、選手全員で何度も話し合い、考えを共有できるまで積み上げてきたという。山崎光希君(同)は「中学時代は監督のサイン通りしていたので最初は戸惑ったが、今では考える野球として最高だと思っている」と胸を張る。
きっかけは2012年8月の高川学園(山口)との練習試合。2試合とも大量失点で負けた。小川監督は「訳が分からないうちにかきまわされて、気づいたら完敗していた」。当時高川学園の監督は中野泰造さん(64)。東亜大(山口県下関市)野球部の監督として、94年、03年、04年と明治神宮大会で3度の全国優勝を成し遂げた指導者だ。中野さんは、09年から学園で、長年実践していたノーサイン野球を指導していた。
その頃、小川監督は知人からこう指摘されたことがあった。「サッカー部に比べて野球部出身の子は指示待ちの人間が多い。自分で考え、行動する力が弱い」。野球を通じて、社会で活躍できる人間を育てることを指導の理念としてきただけにショックだった。「野球だけでなく自分で判断し、動ける子どもたちを育てることにつながる」と、ノーサイン野球を採り入れた。
それから中野さんのもとに毎年通って教えを請うた。中野さんは「小川先生ほど熱心な指導者は初めてだった。信頼に応えるためにもやらなあかんと思った」。昨年8月、小川監督からの依頼で、富岡西を訪れた。
中野さんは、すぐ阿南市を気に入った。野球を中心としたまちづくりを目指している市。将来野球アカデミーを開きたいと考えていて、市野球のまち推進課の職員や熱心に取り組む市民とも意気投合し、移住を決心した。今年2月からは妻と富岡西がある徳島県阿南市内のホテルで暮らし始め、ノーサイン野球に助言を続けている。4月からは市から業務委託を受け野球の指導、国際交流、合宿誘致を支援する。小川監督は「野球のまちの不思議な縁が歯車のように回った」と喜ぶ。
小川監督は「子どもたちが縦横無尽にやってくれた。『ここでこんなことやるのか』というすごい発想が生まれることが大きい。社会に出たらこうした体験は大きいと思います」。悔しくも、強豪校と渡り合って手応えを感じていた。(佐藤常敬、吉村治彦)