新元号が「令和」に決まった1日、「平成最後の甲子園」の第91回選抜高校野球大会は休養日となった。新しい時代の始まりを前に、95年にわたる大会の歴史の中で「最初」と「最後」を刻んだ春を振り返る。
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選抜大会が始まったのは1924(大正13)年の4月1日。8校が出場して名古屋市の山本球場で開催され、高松商(香川)が決勝で早稲田実(東京)を破り、優勝した。高松商は今春も出場したが、2回戦で敗れて3度目の優勝はならなかった。
「大正最後」の第3回は広陵中(広島)が初制覇した。広陵はこれまでに春は3回優勝しているが、今回は東邦(愛知)に2回戦で敗れ、姿を消した。
「昭和最初」は27(昭和2)年の第4回で、優勝した和歌山中(現桐蔭)は米国遠征に派遣された。戦争で中断される前の最後の大会は41(昭和16)年の第18回で、東邦商(現東邦)が3度目の優勝を果たした。
戦争による5年の中断を経て、大会が再開したのは第19回の47年だった。徳島商が小倉中(福岡)との決勝を延長十三回で制し、戦後最初の優勝をつかんだ。学制改革を受け、翌年の第20回を制した京都一商(現西京)は「高校野球で最初」の優勝校となった。
戦後最初の「初出場初優勝」は第22回の韮山(静岡)。第25回で洲本(兵庫)も成し遂げた。紫紺の大旗が初めて箱根の山を越えたのは第29回。2年生エースの王貞治投手を擁する早稲田実が優勝した。第30回は済々黌(熊本)が九州勢で初制覇した。
沖縄勢最初の出場は第32回の那覇。1回戦で北海(北海道)に敗退した。第34回で優勝した作新学院(栃木)は夏の全国選手権も制して史上初の春夏連覇を達成した。東京五輪があった64年の第36回は、第1回を除けば初の初出場校同士の決勝となり、徳島海南(現海部)が尾道商(広島)を破った。尾崎正司(現将司、プロゴルファー)が優勝投手となった。春夏通じて初の大記録も選抜大会で生まれた。第50回で前橋(群馬)の松本稔投手が比叡山(滋賀)戦で完全試合を達成した。
「昭和最後」となった88年の第60回大会は、初出場の宇和島東(愛媛)がいきなり頂点に立った。チームを率いた上甲正典監督(故人)は、第76回でも済美(愛媛)で初出場初優勝を果たす。
「平成最初の甲子園」の第61回は東邦が48年ぶり4度目の優勝を飾った。今大会で30年ぶりに準決勝へ進んだ東邦は、平成の締めくくりでも優勝を狙う。エースの石川昂弥(たかや)主将(3年)は、父親が30年前の優勝を東邦の野球部員としてアルプス席で見届けた。石川主将は「平成最初と最後」の甲子園優勝について「意識はしているが、目の前の試合でしっかりと自分たちの野球がしたい」と気を引き締める。
20世紀最後の第72回は東海大相模(神奈川)が3回目の決勝進出で初の優勝。21世紀最初の第73回は仙台育英(宮城)が東北勢で初めて決勝まで進んだものの、常総学院(茨城)に及ばなかった。
2日が準決勝で、今春も残り3試合。初めて4強入りしたのは3校で、習志野(千葉)は選抜大会での初優勝、明豊(大分)と明石商(兵庫)は春夏通じて初めての優勝を目指す。休養日も各校は練習して準決勝に備えた。
習志野の小林徹監督(56)は練習中、自身のスマートフォンを確認するしぐさを時折見せた。午前11時半を過ぎ、小林監督が選手のバットでグラウンドに書いた文字は「令和」。打撃練習をしていた選手たちはその文字の横で立ち止まったり、不思議そうに見つめながら通りすぎていった。
「日頃から野球だけでなく、社会事象にも興味を持つように」と選手らに呼びかけているという小林監督。中堅手の根本翔吾君(3年)は、「令和」の文字を見つめて疑問に感じていると、監督に新元号だと伝えられた。「冗談っぽく、ちゃんと漢字で書けるようにしとけと言われました。もう書けます」
自校のグラウンドで練習した明石商の重宮涼主将(3年)は「新元号は和という文字が入っているので、平和になってほしい」と新しい時代への願いを込めつつ、「平成最後の大会で優勝できるように、自信を持って戦いたい」と意気込んだ。(辻健治、森直由、松山紫乃)