パリのノートルダム大聖堂の火災で失われたものは何か。仏文学者の野崎歓さんに寄稿してもらった。
【写真】ノートルダム大聖堂の尖塔(せんとう)部分が炎と煙にのみ込まれながら崩れ落ちる瞬間をとらえた
ノートル=ダムが燃えている。朝起きて家人にそう言われ、あわててパソコンでパリの報道に接し、絶句した。炎に包まれた大聖堂。なすすべもなく立ち尽くす人々。聖歌を歌う若者たち。15日午後7時前に出火し、数百名の消防士たちによる懸命の消火活動により、ようやく16日の午前3時半に鎮火した。
いうまでもなく、パリでもっとも由緒ある、だれもが知る建造物だ。“目の前でわれわれの心臓が燃やされている”という市民の声が悲痛だったが、そのつらさは世界中で共有されただろう。
初めてノートル=ダムの実物を見たときのことは忘れがたい思い出だ。大学卒業前の春休みに友人とフランスに旅して、パリの真ん中に位置するシテ島にそびえる古さびた大伽藍(がらん)の威容を仰ぎ、「本当に存在していたのか」と驚嘆の念にとらわれた。写真や絵や映画でさんざん目にしてきたイメージが現実となった瞬間だった。
その後留学中、パリで暮らすこ…