エドワード・クラーク氏=京都大文学研究科提供
昨年のワールドカップ(W杯)での日本代表の活躍で注目が高まるラグビー。競技を日本に伝えたとされるエドワード・クラーク氏に光をあてようとする動きが始まっている。
慶応大ラグビー部OB会の「百年史」によると、クラーク氏は1874年、英国人の両親のもとに横浜で生まれた。慶応大の英語講師だった25歳の時、「晩夏から冬にかけて屋外では何もすることがないように見えた」として、学生にラグビーを教え始めたという。日本ラグビー協会は、この1899年を「日本にラグビーが伝わった年」としている。
「ところが、クラーク氏は突然、日本ラグビー界から姿を消すのです」。こう話すのは、ラグビー史を研究している兵庫県立芦屋高校非常勤講師の高木応光(まさみつ)さん。1907年、リウマチの悪化で右足を切断。以後はラグビー界を離れ、晩年は34年に亡くなるまで京都帝国大(現・京都大)教授を務めた。
クラーク氏が眠るのは神戸市立外国人墓地。六甲山系の再度公園(北区)にある。墓地を管理する市森林整備事務所によると、墓は当初、今の中央区にあった別の墓地(春日野外国人墓地)にあったが、61年までに移されたと記録されている。それにしてもなぜ、神戸に墓があるのか。高木さんは「クラーク氏の子どもが神戸に住んでいたからではないか」と話す。
クラーク氏の墓が神戸にあることはあまり知られておらず、墓の所有者などの状況も不明の状態という。整備事務所の重藤洋一前所長(52)は「老朽化や災害で墓が壊れたら、誰が費用負担するのか分からない。この15年で墓を訪れたのも研究者が数人程度です」と言う。
トップリーグの神戸製鋼コベルコスティーラーズのゼネラルマネジャー、平尾誠二さん(53)は「ラグビー関係者なら誰でも知っている偉大な人が神戸に眠っているとは」と驚く。
慶応大ラグビー部OB会長、松井誠司さん(69)はクラーク氏の墓があると聞き、昨年末にOB会メンバーらと墓参。神戸市側と今後の管理について話し合った。OB会はクラーク氏の命日前日の今月27日に墓参りすることを決め、墓地内に功績をまとめた石碑を建てることも話し合っているという。
2019年W杯日本大会の会場の一つでもある神戸市の久元喜造市長は「クラーク氏の眠る神戸でW杯の試合が開催されるのは、時代を超えた結びつきを感じる」と話す。市はW杯関連のホームページでクラーク氏の功績などを紹介するという。(石塚大樹、金井和之)