与謝野夫妻
歌人の与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻が青森県の知人とかわした書簡類31点を同県弘前市立郷土文学館が翻刻し、さかい利晶の杜・与謝野晶子記念館(堺市)が確認した。夫妻の手紙を集めた書簡集には未収録で、「明星」復刊を宣伝する記述や、夫妻の全集に未掲載の短歌8首もある。記念館は「これだけまとまって見つかることは珍しい。明星などが出ていない時期の書簡もあり貴重な資料」としている。
書簡は同県板柳町で味噌醬油(みそしょうゆ)製造業をしていた松山鉄三郎氏宛て。孫で東京都国立市の出版社顧問松山宗平さん(84)が父親から譲り受け、自宅で保存していた。今年、文学館の館田勝弘・企画研究専門官(3月末で任期満了)に、崩し字で書かれた文献を楷書に直す翻刻を依頼した。
夫妻は1925(大正14)年9月に1度だけ同町を訪問。松山家に3日間宿泊した。文芸誌「明星」には、夫妻が松山家で万葉集や源氏物語を講義したとの記載がある。
書簡は同年10月の宿泊のお礼から、35年12月の晶子の手紙まで10年間の書簡28通とはがき3枚。松山氏の短歌を夫妻で添削し、送り返した巻紙もある。
26年7月の書簡では、夫妻で同町の歌人の死を悼み、「覚めぬかな只今見るはわが友の忽ち有らぬまが夢にして」と晶子が3首、「また行きて岩木の山は見るべかり君あらずして誰と歌はん」など寛が5首を寄せた。
27年9月には寛が「『明星』も十一月には復刊致度しと存じをり候」と、明星の復刊を知らせる書簡を送り、31年6月には函館からの帰りの青函連絡船からの絵はがきで、晶子が「外が浜ほの紫の霧ぞ引く岩木の山のこひしきものぞ」と詠んだ。
35年3月の寛の死後、12月に「故人も林檎のいろに津がるの夕映をおもひ申すべしとおもはれ候」と晶子がたびたび贈られたリンゴの礼を述べている。
与謝野晶子記念館の安達智美・堺市博物館学芸員は「晶子は色紙や短冊が各地で数点見つかることがあるが交流が長く続いたので、まとまった資料が見つかったと思う。1回しか行っていないのに丁寧に書簡をかわす与謝野夫妻の人柄も出ている」と話している。
書簡の一部は4月20日~5月31日、同郷土文学館で公開される。(村上潤治)
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〈与謝野寛・晶子〉 夫の寛(鉄幹、1873~1935)は京都生まれで文芸誌「明星」や短歌雑誌の「冬柏」を創刊した。妻の晶子(1878~1942)は堺出身で、近代歌壇を代表する詩人。1901年に歌集「みだれ髪」を刊行。歌集「火の鳥」や詩歌集「恋衣」も残した。日露戦争に出征した弟を思って詠んだ詩「君死にたまふことなかれ」で知られる。