宇宙航空研究開発機構(JAXA)の柳川孝二・元有人宇宙技術部長=瀬戸口翼撮影
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「憧れの職業」として、よく挙げられるものの一つに宇宙飛行士があります。その宇宙飛行士の選抜試験の事務局をとりまとめた宇宙航空研究開発機構(JAXA)の柳川孝二さん(65)は、ロケットエンジンの開発を皮切りに、宇宙ステーションの企画立案や様々な分野を経験してきました。新しい分野に挑戦することで、仕事のやりがいを味わってきたそうです。
――柳川さんが担当した宇宙飛行士選抜(2008年に募集)では最終的に選ばれた3人の枠に過去最多の963人が応募する狭き門でした。
「選抜試験ではJAXAの有人宇宙技術部長として、事務局をとりまとめる立場でした。それぞれの組織で、一線で活躍している人たちが応募してくれました。選抜に携わった人それぞれに理想の宇宙飛行士像というのがあります。私には、国際宇宙ステーションという閉ざされた空間でチームパフォーマンスを長期的・短期的に持ち上げてくれる人、という宇宙飛行士像があり、それに沿った人を選ぼうと考えました。面接では、宇宙空間でもパニックにならずにちゃんと動けるか、あえて圧迫面接でストレスをかけました」
――最終選考では1週間の閉鎖環境試験もありました。
「応募者963人から最終選考までに8人に絞る予定だったのですが、どうしても絞りきれなくて、隔離施設にベッドを追加して10人で生活してもらいました。肉体的・精神的負荷をかけて、どのように反応するかも見ていました。宇宙という特殊な環境でトラブルがあってもリカバリーできるか、その能力を把握するためです。リーダーシップも大事ですが、フォロワーシップも大事です」
■リーダー役もフォロワー役も
――昨年宇宙ステーションに滞在した油井亀美也さんは、閉鎖環境試験ではいかがでしたか。
「ディベートの時間があるのですが、6回やって彼はすべて『勝ち』のチームにいました。各回でそれぞれ役割を代えるのですが、リーダー役をやっても、フォロワー役をやっても、すべて勝利していました。一方で、折り鶴を黙々と続けて忍耐力が試される単純作業は少し苦手のようでした。競争相手でもある他の受験者が油井さんを助けていたのが印象的でした」
――6月に宇宙に向かう予定の大西卓哉さんはいかがでしたか。
「閉鎖環境試験のなかで、自己PRの時間があって、ひとりでミュージカルを演じ分ける特技を披露していました。それで人心掌握というか、それまであまり積極的に話すことはなかったのですが、チームをまとめていく立場に変わっていきました」
――最終的に選ばれたのは、金井宣茂さんも含めて3人です。
「メディカルの面もあって、選ぶことを回避された人もいました。心技体というか、ちゃんと体も維持しないとダメですよね。選抜を終えて、『惜しかったよなあ』という人は何人かいました」
■学生時代と畑違いの研究に
――柳川さん自身がJAXAの前身、宇宙開発事業団(NASDA)に入られたのは。
「大学の就職課にはってあったロケットのポスターがきっかけです。ロケットの写真を見て『これ、かっこいい』と。NASDAの就職試験が秋にあるので、それまで受験勉強をしました。英語と数学と物理です。NASDAのパンフレットを読んでいたら、英語の問題はその英訳でした」
――就職してから初めての担当は。
「学生時代に研究していたのは半導体レーザーでした。そこで、同じように素子を使う人工衛星のセンサーについての仕事を希望しましたが、配属されたのはエンジングループの開発員でした。液体酸素と液体水素を使うLE5エンジンの開発がはじまっていました。学生のときに実験で液体ヘリウムを使っていたから、というのが配属の理由です。学生時代の研究とは全然関係ないところだと私は感じましたけどね。そこから、ロケットエンジン開発の生活が始まりました。1986年にエンジンを搭載したロケットの打ち上げが成功したときは、うれしかったですね」
――ずっとエンジン開発畑だったのですか。
「マサチューセッツ工科大学に1年間留学して、帰ってきたら、成田空港で出迎えた上司から科学技術庁に出向してくれと言われました。そこからは、宇宙ステーションに関わる仕事になりました」
――仕事の分野が変わって大変だったことは。
「それぞれのセクションでは、自分として満ち足りた生活をしているのに、『ある日突然、おまえはいらない』と。余人をもって代えがたいという自負心をもってやっていたのに、ある瞬間がっくりしますよね。俺の力はいらないのかな、と」
――それをどうやって乗り越えたのですか。
「人がやっていないことをやることを喜ぼうと考えるようにしました。宇宙ステーションの担当時は、宇宙空間での無重力実験にそなえて、微小重力を作り出す施設を岐阜につくる企画・立案をやりました」
――ヒューストン駐在員事務所長など、他の国との交渉役も務められましたね。
「宇宙開発に参加している各国がそれぞれの利益を最大化しようとして頑張る。NASA(米航空宇宙局)とはよくやり合いました。NASAの力が圧倒的で、力勝負でやると交渉で負けるのは明白です。向井千秋さんを宇宙へ送り込むときには、『草の根』で勝負しました。NASDAのメンバーらとアメリカの大学の研究室を行脚して、『宇宙で使う実験装置は日本のものも使って』と売り込みました。日本の実験装置なら、それを扱う宇宙飛行士も日本人、となる。そういったことの成果もあって、向井さんの宇宙へのフライトが決まりました」
■失敗談を聞くのはNASAでも
――宇宙飛行士の選抜試験でチームパフォーマンスを強調されていましたが、柳川さんの仕事でも同じですか
「私が知っている範囲は限られたものです。私たちが相手にする、宇宙に人間を送り出して、滞在してもらって、安全に地球に帰還してもらうという一連のシステムは、とても規模が大きなものです。システムがきちんと機能するようにチームの知識を結集することが必要になります」
――宇宙飛行士だけでなく、職員採用の面接もされたのですか
「何回かやりました。『小さいころから宇宙に興味があって』と一生懸命売り込む人もいましたけど、採用面接のときには新しい場所でやれるか見極めようと心がけました。特に失敗談を聞くようにしていました。学生時代にどんな組織にいましたか、どんな活動をしましたか、その中で失敗談を教えてください、と。どうリカバリーショットを打ったのか、NASAでも失敗談をどう乗り越えたのか聞くようにしています」
――就活生に伝えたいこととは
「40年間、宇宙に関わる仕事をしてきましたが、『この仕事がやりたいです』と言って、それが通った経験はないんです。組織には組織のロジックがあります。私は自分がやりたいことと少しずれたことをやってきました。新しいことをやれ、と言われたことを『あ、面白い』と思って飛び込んできました。宇宙飛行士も、新しいことにも挑戦できる人でないと大成できない。就職する人にも言えることです。大きな舞台で事を成し遂げようと思ったなら、新しい環境も取り込んで、チームパフォーマンスを最大限発揮できるようにしてください」
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やながわ・こうじ 1951年生まれ、東京都出身。早稲田大学大学院理工学研究科の物理学修士課程を修了後、旧・宇宙開発事業団(NASDA)に入社。ロケットのエンジン開発や宇宙ステーションの運用計画などを担当した後、08年に募集された宇宙飛行士の選抜試験の事務局トップを務めた。現在はJAXAのセキュリティ・情報化推進部と広報部の特任担当役。65歳。