受賞あいさつをする蓮實重彦さん=東京都港区のホテルオークラ東京
三島賞を受賞した蓮實重彦さんは、あらかじめ用意した文章を読み上げた。その後、来場者に配られた挨拶全文は以下の通り。
蓮實重彦さんが受賞あいさつ 三島由紀夫賞贈呈式
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聴衆を前にしてマイクを握ると何を口走るか分かりませんので、あらかじめ準備しておいた文章を、しめやかに読みあげさせていただきます。
あらゆる年齢にはそれにふさわしい果実がみのるものだと述べたのは、レイモン・ラディゲRamond Radiguetだったと記憶しております。肝心なのは、それを摘みとることができるか否かにかかっている、と彼はつけ加えていたと思いますが、かりにこのモラリストめいた箴言を信じるなら、いま耳にしたばかりの川上弘美さんの爽やかなお言葉から、八十歳のわたくしがみのらせた果実も、しかと摘みとられたのではないかと錯覚しそうになります。しかしわたくしは、それほどあつかましくもなければ、破廉恥な人間でもありません。みずから書いたものの限界ぐらいは、充分すぎるほど心得ているつもりだからです。そもそも、『ドルジェル伯の舞踏会』の作者ラディゲは、一世紀近くも前に二十歳で夭逝しており、その四倍もの歳月を生きてしまった蓮實重彦というきなくさい日本の老人のことなど、想像すべくもない存在だったのです。
では、多少とも面識のあった老齢者の言葉に助けを求めてみるとどうなるでしょうか。例えば、晩年のロラン・バルトRoland Barthesは、年齢をかさねるにつれて、ますます自分の気に入ったことしかしなくなった、と述べております。六十四歳のバルトが「自分の気に入ったこと」しかしなくなったというのなら、八十歳のわたくしが「自分の気に入ったこと」として『伯爵夫人』を書いてしまったことも、許されて当然だといえるかも知れません。ところが、そう宣言したバルトにとっての「自分の気に入ったこと」とは、あるパーティーをひそかに抜け出すといった程度の、ごくつつましいものにすぎません。だとするなら、わたくしには、バルトより遥かに大胆に、「自分の気に入った」ことにかまける自由が保証されているのでしょうか。
晩年のバルトにとって、小説の執筆は、あくまで構想の段階にとどまるものでした。ところが、平成日本においては後期高齢者と蔑視されているこのわたくしは、「自分の気に入ったこと」を、アンドレ・ジッドAndr●(●はeに鋭アクセント付き) Gideの定義による《une novelle》、すなわち「中編小説」として書いてしまいました。はたして、それは大胆な振る舞いなのでしょうか。それとも、バルトのいう《l’arrogance》、すなわち「厚顔無恥」なものでしかないのでしょうか。ことによると、「厚顔無恥」でもいっこうに構わぬという開き直りのようなものが、わたしくしの「気に入ったこと」だったのかも知れません。いずれにせよ、『伯爵夫人』が、大江健三郎氏のいう静穏な「晩年様式」の範疇にはとてもおさまりのつかぬものであることだけは、自覚しているつもりです。