篠原弘典さん=仙台市泉区
人権擁護に尽力した個人や団体に贈られる第28回多田謡子反権力人権賞に、東北電力女川原発(女川町、石巻市)への反対運動を続ける仙台市の篠原弘典さん(69)が選ばれた。「福島のような過ちを二度と繰り返させない」。篠原さんは再稼働阻止への思いを新たにした。
特集:核といのちを考える
塩釜市出身、1966年に東北大学に入学した。国内初の商業炉として茨城県の東海原発が運転を始めた年だ。原子力の平和利用を「夢の技術」と考え、原子核工学科に進んだ。
だが、学べば学ぶほど、大量の放射能を生み出す原子力への疑問がわき上がった。「原爆も原発も本質的な技術は同じ。過酷事故を起こす危険があり、軽々しく利用していいものではない」
学生運動全盛の時代。社会に対してどんな役割を果たすべきかを自問していた篠原さんは、建設計画が浮上していた女川原発の反対運動に身を投じていく。70年、漁師らによる反対集会に顔を出し、そのまま女川町内の長屋に住み込んで、原発の危険性を訴えるチラシを漁村に配った。2学年下の同志には元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さん(67)もいた。
同級生が東北電や東芝といった原子力関連企業に就職する中、篠原さんは、とび職になった。しがらみを避け、反対運動を続けるためだった。
そして2011年、東京電力福島第一原発事故が起きた。悲劇を知ったのは仙台市の自宅で電気が戻った4日目。水素爆発で鉄骨がむき出しになった原子炉建屋。拡散し続ける放射性物質。テレビ映像に立ちすくんだ。「訴えてきたことが現実になってしまった」
事故を防げなかった非力さを悔やみ、運動にいっそう力が入った。県内に点在する反原発団体をまとめた「女川原発の再稼働を許さない!みやぎアクション」を12年に立ち上げ、世話人に。講演会などを頻繁に開き、脱原発を東北電力に求める株主提案は、今年で22回を数えた。
「一貫して運動の牽引(けんいん)役となり、脱原発社会実現のため長年にわたる闘いを続けてきた」。人権賞の運営委員会は、そう評価した。
震災の震源から最も近かった女川原発。東北電は津波や揺れの被害を最小限に抑えたと強調、再稼働を急ぐが、沖合は地震の巣だ。耐震補強したとは言え、設計時の想定を超す揺れを受けた原子炉や建物が、次の大地震に耐えられるのか。
「きちんとした検証や情報公開を東北電はしていない。再稼働は認められない」。来年70歳。篠原さんの闘争心は衰えない。(木村聡史)
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〈女川原発〉 東北電力が女川での原発建設を決めたのは1968年。地元の漁師を中心に反対運動が起きたが、町漁協が補償金を受け入れるなどし、79年に本格着工。反対派は81年に運転差し止め訴訟を仙台地裁に起こした。84年に運転を始めたが、訴訟は2000年まで続いた(最高裁で棄却)。95年に2号機、02年に3号機が稼働。11年の震災では13メートルの津波に襲われ、5回線あった外部電源が1回線を除いて喪失。2号機の原子炉建屋の地下が浸水するなどの被害が出た。東北電は13年、2号機について国の適合審査を申請。来年4月以降の再稼働をめざしていたが、延期を決めた。