子どものころ書いていた小説を振り返り笑顔を見せる
作家横山秀夫さんが、代表作誕生の背景を語ります。小説の流儀や日々の暮らしのスタイルから、社会派作家のまなざしが浮かんできます。
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1991年にサントリーミステリー大賞の佳作に選ばれた「ルパンの消息」は、幻の作品と呼ばれてきた。新聞記者を辞め、作家への道を選ぶ転機になった作品でありながら、デビューしそこね、出版されたのは「クライマーズ・ハイ」などがヒットした後の2005年になってからだった。
――どんでん返しも決まっていて、現在の作風に比べ軽やかですね。
小説を書いていて楽しかったのは、この作品だけかな。小学生のころに図書室で借りた「宝島」や「フランダースの犬」の“続編”を書いていた時のように、すごくわくわくしました。
今はしんどい。読者にお金をもらって読んでいただくわけですからね、手抜きも妥協も一切しません。日々コールタールの海を泳いでいる気分ですよ。
――小説を書きたい気持ちがほとばしり出た感じですね。でも、書く時間がよくとれましたね?
当時は県庁の記者室に詰めていて、帰宅後の午後11時ごろから朝まで書いていました。物語を書くことが面白くて、面白くて……。400字詰めの原稿用紙400枚ぐらいを、5月の連休をはさんで3週間かかっていなかったはずですよ。まあ、仕事の合間に昼寝もしましたけどね。
――新聞記者の仕事よりも楽しかったのですか?
うーん。会社のなかでも外でも、横山といえば事件記者と見られていたし、やりがいもあって、自分でも記者が天職だと思っていました。
でも、何か違うなという違和感…