現役最後の演技となった昨年12月の全日本選手権で、フリーの演技を終えた浅田真央選手
12日午前、東京都内のホテルで引退会見に臨むフィギュアスケート女子の2010年バンクーバー五輪銀メダリスト、浅田真央選手(26)=中京大。「真央ちゃん」の愛称で親しまれ、軽やかなジャンプで世界をわかせたフィギュア人生だった。
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浅田真央の歩み
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フィギュアが盛んな名古屋市育ち。5歳のとき、2歳上の姉、舞さん(28)とともにスケートを始めた。1992年アルベールビル五輪銀メダリストの伊藤みどりさん(47)を育てた山田満知子コーチ(73)のもとで学び、幼くして才能を開花させた。たぐいまれな瞬発力を生かして覚えた3回転ジャンプ。12歳で初出場した全日本選手権では、女子で世界初となる3回転ジャンプの3回連続コンビネーションを決めた。
天才少女が世界を驚かせたのはシニアデビューした05~06年シーズン。女子で跳べる選手が少ないトリプルアクセル(3回転半)を武器にし、グランプリ(GP)シリーズのフランス杯を制すると、GPファイナルでも優勝。しかし、06年2月のトリノ五輪は国際スケート連盟の「前年の7月1日の前日までに15歳になっていること」という年齢制限で、9月生まれの15歳は出られなかった。
世界選手権は08年に日本勢最年少の17歳で初制覇。だが、初出場の10年バンクーバー五輪では金姸児(キムヨナ)選手(韓)に敗れた。ショートプログラム(SP)とフリーで計3度のトリプルアクセルを決めたものの、完璧な演技をしたライバルに及ばず、銀メダルだった。
11年12月に母の匡子(きょうこ)さんを亡くしたが、直後の全日本選手権では悲しみをはねのけて頂点に立った。劣勢でもあきらめない姿勢が共感を呼ぶ。バンクーバー五輪に出場した織田信成さん(30)は、14年ソチ五輪の浅田選手をこう振り返る。「彼女が演じたプログラムは、復帰するなら絶対に金メダルを取りたいという決意を感じた」。SPで16位と出遅れたものの、フリーでは冒頭のトリプルアクセルを成功させて勢いに乗る。女子選手として五輪史上初めて、6種類の3回転ジャンプを着氷させ、フリーの自己最高点で6位。銀盤で泣いた後、満面の笑みで戻ってきた浅田選手を、佐藤信夫コーチ(75)は「お疲れさん、よく頑張ったね」と心の中でつぶやいて抱きしめた。
ただ、背負った重みは想像以上だった。「(試合の重圧が)自分の体にも心にも負担になっている」。ソチ五輪後に「(現役続行の可能性は)いまのところハーフハーフくらい」と答え、1年間休養。復帰後は左ひざのけがに苦しみ、若手のライバルも台頭し、昨年の全日本選手権は12位。思うような演技ができず、出れば自身3度目の五輪となる来年の平昌(ピョンチャン)大会を前に銀盤に別れを告げた。
山田コーチは11日に報道陣の取材に応じ、「全日本終わった後、もんもんとして悩んでたんだと思う。決断できたことについて、前に『ハーフハーフ』」と言ったときに比べ、すがすがしいと受け止めました」と話した。(笠井正基)