「決して上から目線にならない」が指導方針だ=涌谷グラウンド
4月下旬、石巻市の河南中央公園野球場。ベンチには県内初の女性監督、涌谷の阿部奈央(25)の姿があった。初采配となった春の地区予選初戦は、母校の石巻に五回コールド負け。「力の半分も出せなかった。私の采配のせい」。淡々と話しながらも、言葉からは悔しさがにじみ出ていた。
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「頑固で負けず嫌い」な性格は高校時代から変わらない。「私が何か言っても、よく納得しない顔をしていた」と当時、石巻の監督だった菅野勇太郎(現・多賀城部長)は振り返る。
高校に入学してすぐ、阿部は菅野の元を訪れた。「選手として入部したい」。菅野はすぐには受け入れなかった。高野連の規則で、女性は公式戦への出場が認められていない。かわいそうだとは思ったが、苦しむのは本人。「いろんな選択肢がある。もう一度よく考えてみろ」
阿部にとって、野球は身近なものだった。父親の輝昭(現・石巻北監督)は長年、高校野球の監督や部長を務めていた。小学生の頃から合宿についていったり、家族で試合の応援に行ったりした。
中学でソフトボール部に入った。それまでは見ているだけだった野球を、自分もプレーできる喜びで毎日が楽しかった。2年の頃にはエースとなり、主力として活躍した。
体育教師になるという夢をかなえるため、高校は進学校の石巻を選んだ。だが、石巻にはソフトボール部がなかった。女子部員を9人集めようとしたが、ダメだった。菅野の言葉で、別の部活も考えてはみた。けれど、チーム全員で勝利を手にした時の喜びがどうしても忘れられなかった。「やっぱり野球がやりたい」。阿部はまた菅野を訪ねた。「できるところまで、やらせてやろう」。阿部の熱意に菅野も折れた。
壁はすぐにやってきた。練習のペースについていけない。キャッチボールをしても全力で投げてもらえていないような気がした。毎日、男子部員についていくので必死だった。中学時代に築き上げた自信は打ち砕かれた。
チームメートはみんな優しかった。けれど、気を使われれば使われるほど、「迷惑をかけているんだろうな」という思いにとらわれた。別の形でもいいから、チームに貢献したい。2年生になるとき、マネジャーになる決心をした。
「自分も男ならよかったのに」。ベンチからプレーする選手たちを見て、思った。「なんでこんなに走れて、こんなに投げられるんだろう」。やり場のない思いが心に残った。ただ野球がしたいだけなのに。
2016年4月、念願の体育教師として涌谷に赴任が決まった。そこで野球部の部長を任された。想像もしていなかった、高校野球との再会だった。そして2年目の今年、監督という大役が回ってきた。
今も監督として悩みは尽きない。ノックでも、飛距離や球の速さがまだまだ足りない。春の公式戦では、サインによる意思疎通がうまくいかず、連係プレーで失敗してしまった。
自分は完璧じゃない。そう自覚しているからこそ、選手たちと一緒に成長しようと努力している。「不満があれば言ってほしい」と選手には伝えている。それが、チームの一体感をつくっている。「奈央先生に1勝をプレゼント」。選手たちの、夏に向けた合言葉だ。
まだまだ高校野球は男性社会。息苦しさを感じるときもたまにある。けれど「この子たちのため」と思えば、負けていられない。
今でも、選手だった頃の勝利の感触は手のひらに残っている。次は監督として、その喜びを選手たちに味わわせてあげたい。今度こそ、最後まであきらめない。=敬称略
■「先生に1勝を」全員一つに
「先生の方が大変なのに、いつも『無理しないでね』と気にかけてくれるんです」とマネジャーの川田瑠菜さん(2年)が教えてくれた。二塁手の引地颯君(3年)は、「負けて、奈央先生のせいと思わせたくない」と、全体練習後もバットを振り込んでいた。
選手は11人と少人数だ。それでも、「奈央先生に1勝」という目標に向かって、全員が一つにまとまっていた。
監督になって初めてのチーム。「どんな結果でも、この子たちのことは一生忘れない」と阿部監督。選手たちも同じ気持ちだと思う。