仲間とともに試合を見つめる山原君(中央)=島根県の江津市民球場
甲子園で計7回優勝、春夏連覇など高校野球史に輝く足跡を残した名門PL学園(大阪府富田林市)。そのユニホームに憧れ続けていた石見智翠館(島根県江津市)の山原康盟(こうめい)君(3年)は3年前の秋、途方に暮れた。
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「これってほんまかな?」。PL学園に進んだ先輩から携帯電話のLINEで連絡が来たのは2014年10月、PL学園中学3年の時だった。一緒に届いたのは1枚の写真。硬式野球部の部員募集を翌春からやめることを保護者に伝える文書だった。「うそやろ」。頭が真っ白になった。
大阪府岬町出身。野球を始めた小学生の頃、父に連れられてPL学園の試合を観戦した。「KKコンビ」の桑田真澄、清原和博両選手と同世代の父はPLファン。一緒に何度も見るうちに引き込まれ、インターネットでノック練習の動画も見るほどに。練習でも試合でも他校とは違った厳格な雰囲気、真剣な表情の選手たちに引かれていった。
憧れのユニホームで甲子園を目指そうとPL学園中学を受験。部活には入らず、硬式野球のボーイズリーグに所属して高校での練習に備えた。
13年ごろ、風向きが変わった。部内の不祥事が原因で野球経験がない監督に交代。PLの強さを支えた特待生制度や寮も廃止されていた。一緒に甲子園を夢見ていた仲間は京都の強豪に進学先を変えた。
山原君はPL学園で高校野球をすることにこだわった。関西の強豪からの誘いも断った。中学3年の夏、PLが大阪大会で決勝に進むのを球場で応援した。甲子園は目前で逃したが、不安を吹き飛ばすような強さ。「あそこで来年は自分も」と強く思った。
非情な知らせはそれからわずか数カ月後だった。ボーイズリーグの練習に身が入らず、毎日続けていた走り込みをやめた。友達ともしばらく話す気になれなかった。自分の部屋で人知れず泣いた。
見かねた父や担任が進学先を探し回った。選択肢がほぼ限られるなか、一人のPL学園OBに行き着いた。石見智翠館の末光章朗監督(47)だ。OB会を通して事情を知り、「自分ならPLで学んだことを伝えられるかもしれない」。大阪・梅田のホテルのラウンジで山原君と初めて会った。「うちに来い。でもうちに来たからにはしっかりやれ。気持ちの整理をつけろ」。山原君はかみしめた。「野球を続けられる」。感謝しかなかった。
石見智翠館に入ってみてPL学園らしさを感じたことがある。規律などを徹底して指導される私生活や緊張感のある練習。野球に対して妥協がなく真剣な姿勢にも通じるものがあった。寮では130人を超す部員が共同生活で、全員肩を並べて3食を取る。「今日はしんどかったな」。そんな会話にほっとする。「PLへの思いは変わらないが、ここに来れてよかった」
中学時代の同期とは今でも連絡を取り、地元に帰れば遊ぶ。京都の強豪校で野球を続ける友人には寮から電話をかけ、試合の成績などを報告し合う。相手の話が自分の励みになる。
下手投げの投手。控えに回ることが多いが、試合に必ず持って行く物がある。PL学園の新入生全員に配られる「アミュレット」と呼ばれる小さなお守りだ。島根に来る時、それを包む袋を母が手作りしてくれた。憧れと、支えてくれる人の思いが詰まったお守り。気持ちが落ち着き、力をもらえる気がする。(市野塊)