最後の夏。めざすは全国制覇だ=仙台育英グラウンド
2年前の夏。当時1年だった仙台育英の佐藤令央(れお、3年)は、熱気につつまれた阪神甲子園球場のスタンドにいた。仙台育英が東海大相模(神奈川)と戦った決勝。仙台育英が六回裏に3点を奪って同点に追いつくと、逆転劇を期待する観衆が、タオルを振り回して沸き立った。
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大観衆のまなざしの先には、マウンドに立つ兄・世那(現オリックス)がいた。140キロを超す直球と高速フォークを武器に、チームを準優勝に導いた絶対的なエースだった。
「世那の弟だ」。球場で知らない人に声をよくかけられるようになった。写真を撮られたり、サインを求められたりした。1年の頃は、それが誇らしかった。
優しい自慢の兄だ。2歳上の兄を追うように、小学1年で野球の道に進んだ。家の前にある公園でいつも2人で、素振りしたり、キャッチボールをしたり。ずっと兄の背中だけを追い続けていた。
■神宮で浴びたヤジ
強豪の仙台育英で、1年の秋の大会で背番号11をもらった。投手としては1年で唯一のベンチ入りだった。東北大会でもマウンドに立ち、ドラフト候補とも言われた。自分なら絶対に世那を追い越せる――。そう信じていた。
だが、2年の春にベンチをはずれた。「夏で挽回(ばんかい)するんだ」と言い聞かせたが、結局夏もベンチには入れなかった。スタンドから見つめたグラウンド。「あそこには俺がいるはずなのに」
チームはその秋の東北大会で優勝し、11月の明治神宮大会に出場した。初戦の履正社(大阪)戦、3点をリードされた七回表から救援のマウンドに立った。だが緊張のあまり、先頭打者に4連続ボールで四球を与え、交代を告げられた。たった4球。佐々木順一朗監督から「気負うな」と叱られた。
マウンドの去り際にスタンドからヤジが聞こえた。「なんで投げさせるんだよ」。甲子園の舞台でも、落ち着いて投げていた兄の姿が浮かんだ。世那の弟として、恥ずかしかった。「何やってんだ、俺」。辞めたいとさえ本気で思った。
試合が終わった後、兄からLINEでメッセージが来た。
「これじゃダメだろ」
「ごめん」
それしか返せなかった。心配して声をかけてくれた両親にも、ついかっとなって、声を荒らげてしまった。
「俺には俺の役割があるんだよ」
そう言ってみて、それが自分の本心だと気づいた。知らないうちに自分を「世那の弟」にしていた。周りの期待に応えようといつも必死だった。「俺は世那の弟じゃない。俺は俺だ」
ずっとプロ野球選手になるのが夢だった。小学生の頃から兄と、どの球団に入りたいかを語り合った。でも成長した今は、自分の実力がわかる。プロにはなれない。世那は本当にプロになった。誰よりも尊敬する兄であることは、今でもずっと変わらない。
■「必要不可欠な選手」に
最後の冬に入る前に、真剣に考えた。自分の役割は何なのか。見つけた答えは「チームを明るくすること」だった。元々、兄と性格は正反対。物静かな兄に対して、人前に出て誰かを笑わせるのが好きだった。ベンチで誰よりも声を出して、チームのみんなを笑顔にすること。それが新しく見つけた自分の「ポジション」だった。
昨秋に新チームになってから、ずっと伝令係を任されている。緊迫した場面で監督の指示を伝えに行くことが多い。だから、必ず一芸を入れることを自分に課している。変顔をしたり、伝令なのに通り過ぎるふりをしたり。「雰囲気を明るく変えられる、必要不可欠な選手」と主将の西巻賢二(3年)。
「兄を超える」という目標はまだあきらめたわけじゃない。兄のように背番号1をつけられなくても、チームの勝利には貢献できる。2年前に見たあの景色は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。最後の夏は、優勝トロフィーを持った自分の写真を送りつけてやるんだ。見てろよ、世那。=敬称略
■取材を通じて
強豪校の取材はいつも緊張して腰が引ける。この時もそうだった。けれど佐藤令央君は愛嬌(あいきょう)のある笑顔で、私の緊張をほぐしてくれた。「記事、書けそうですか」。にまっとした顔で笑わせてくれて、すぐに令央君のファンになった。すごい才能だと思った。
病気がなければ、もし男だったら、あの日さえなければ、自分がエースだったら……。理想と違う自分。戻れないあの時。みんな何かにもがいてる。頑張れば努力は報われるなんて、甘い世界じゃないことはわかってる。けれど私には、みんなすごく輝いて見えた。(山本逸生)