ビデオで基調講演する皇太子さま(宮内庁提供)
皇太子さまは20日に米ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」でビデオによる基調講演をした。「水に働きかける」と題し、水や自然と人の関係を調和させることなどで「世界の持続可能な発展を助け、貧困の撲滅や地域の安定に大きく寄与するものと確信しています」と語った。
特集:皇室とっておき
皇太子さまは治水や利水など水問題の研究をライフワークにしており、2013年と15年に同会合に出席して基調講演をした。この日の冒頭では九州北部豪雨をはじめ、世界各国で相次ぐ水災害に言及。「あらゆる災害の犠牲となられた方々のご冥福を祈り、被災された方々とそのご家族への心からのお見舞いを申し上げます」と話した。
また、国内の災害を記した記念碑や「日本書紀」などの歴史記録を紹介。「大災害に備える必要が出てきており、手がかりはむしろ歴史記録に求めるほかに方法がない」と述べた。
オマーン王国の地下水路や、4月のマレーシア訪問時に視察した洪水放水路と道路を兼ねたSMARTトンネルなどを例に「地下空間を活用し、重力を使って水を運ぶ発想は2千年以上にわたり共通」と指摘。「興味深いのは科学技術の進展につれ、地下水路の用途と規模が今なお発展して応用範囲を広げている」との見方を示した。(多田晃子)
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米ニューヨークの国連本部で20日に開かれた「第3回国連水と災害特別会合」で、皇太子さまのビデオ基調講演が上映された。タイトルは「水に働きかける」。内容は次の通り。(※文中の図は、
http://www.kunaicho.go.jp/page/koen/image/1
でご覧になれます)
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ハン・スンス議長
各国元首、閣僚並びにご列席の皆様
本日、米国ニューヨーク市の国連本部で行われる第3回国連水と災害特別会合でビデオによる基調講演を行う機会を頂き、大変うれしく思います。
今年に入ってからも、世界各国で相次いで水災害が猛威を振(ふる)い、2月にはサウジアラビアで、3月にはペルーで、5月にはタイで、6月にはスリランカおよび中国で大きな被害が発生しました。日本でも今月、豪雨によって九州その他の地域で激甚な水災害が発生しました。これらの災害をはじめ、あらゆる災害の犠牲となられた方々のご冥福を祈り、被災された方々とそのご家族への心からのお見舞いを申し上げます。
私は過去2回の国連水と災害特別会合の講演の中で、水と災害の問題を含めて、人と水との関わりの歴史やその教訓を振り返りながら、人と水とのより良いかかわりについて考えてきました。過去の経験や優れた事例から学ぶことは、水問題解決の近道に思えます。このため、今回は、より深く歴史を振り返り、人と水とのかかわりについて考察を深めていきたいと思います。水から受ける恩恵を高め、水から受ける被害を低減するために、人々がどのように水に働きかけてきたのかに焦点を当てたいと思います。
まず「水と災害に関して歴史から学ぶ」ことの意義についてお話をしたいと思います。この写真をご覧下さい(図1)。これは、日本の四国、徳島県の美波町にある600年以上前の石碑です。表面には今では見えにくくなっていますが、釈迦三尊を示す梵字(ぼんじ)と、その下に60余名の人々の名前や康暦2年11月26日という日付等が刻まれています。康暦の碑と呼ばれるこの石碑は、1361年に起こった大地震とそれに伴う大津波で亡くなった人々を供養するために、お経を写して土の中に埋めて法要を行ったことを示しており、康暦2年すなわち1380年に建立されたものと思われます。刻まれた人名は、写経を行った僧侶やこの供養のために尽力した人々である可能性が高いようです。ちなみに、この康暦の碑は、日本における津波災害に関する現存最古のものと言われています。
この康暦の碑一つだけを取れば、過去に起こった一つの災害を記した記念碑にすぎませんが、日本ではこうした石碑が地震や津波が発生した地点に点在しています。この地図は、四国地方における災害記念碑や記録の例です(図2)。これらは、それぞれ地震の発生年や、津波到達地点、被害の規模を示す貴重な手掛かりとなっています。
災害は石碑だけでなく歴史記録にも書き記されています。この写真(図3)は、日本最古の歴史書である「日本書紀」に見える、紀元684年に発生した白鳳地震と呼ばれる大地震の記録です。右側の写真の部分には、地震の被害の様子が、そして、左には、現在の四国高知県沿岸で潮が高く逆巻いて、海水があふれ、船が流されたことが記されており、日本における最古の津波の記録といわれています。
この図をご覧ください(図4)。この図は津波の地質記録と歴史記録の照合図です。地層内にある津波堆積(たいせき)物はある年代に津波が発生した証拠となりますが、これだけでは津波の正確な発生年月日や到達範囲はわかりません。同様に津波に関する歴史記録だけでは、本当に津波が発生したのか、またその高さを特定することは困難です。しかし、この両者を比較照合することで、何百年も前に起こった津波の発生年月日、到達範囲や高さをかなり正確に検証することができます。
巨大な地震や津波、大洪水といった大規模災害は、往々にして人間のライフスパンを超えた長い間隔で発生します。私たちの社会では大災害に備える必要が出てきており、そのための手掛かりはむしろ歴史記録に求める他に方法がないわけです。歴史から学ぶということは抽象的なレトリックではなく、将来発生する災害の規模や範囲を推定するといった具体的な手掛かりを得ることを示しています。
さて、次に私の今までの講演の中で主題の一つとしてきた「人と水の関係」について、本日は人間がどのように水に働きかけ、その脅威に対応し、その恩恵を享受しようとしたかという点に的を絞ってお話ししたいと思います。ここでは日本と中国の例をお話しします。
私は昨秋、信玄堤を訪れました(図5)。信玄堤は、日本の戦国時代(16世紀ごろ)の傑出した武将である武田信玄によって建設されました(図6)。信玄堤というと、堤防という構造物が連続して設置されているイメージを持ちますが、信玄の目指したところは、単なる堤防だけでなく、異なった機能の施設を巧みに配し(図7)、当時暴れ川だった釜無川の洪水を制御し、その豊かな水量の恩恵を自国にもたらすことにあったようです。
信玄堤はどのようにして釜無川の洪水を防いでいたのでしょうか。この図は信玄堤とその周辺施設全体の配置を示したものです(図8)。これらの施設によって河川洪水がどのように治められていたのかを見ていきたいと思います(図9)。釜無川は甲府盆地を貫く河川で、周辺の山地から集まった水を盆地地域一帯に吐き出します。信玄堤のシステムでは、洪水の流れをまず、固く大型の構造物である「石積出し」にぶつけて北に向け、南方での洪水を防ぎます(図10)。次に日本の将棋の駒のような形をした「将棋頭」で流れを二つに分けてその勢いを分散させます(図11、図12)。分水された洪水流は、河床を掘り下げた「堀切」に導かれ(図13)、自然の障壁である「高岩」にぶつけられ減勢されます(図14)。その後流れは更に前御勅使川にあてられ水勢が相殺され、その下流には霞堤(かすみてい)が配され、減勢された洪水流を甲府盆地に穏やかに氾濫(はんらん)させ、ピークが過ぎてからゆっくりと川に戻されます。取水口はこの地点に設けられ(図15)、洪水時の激流による施設の損壊を防ぐとともに、土砂の少ない流水が灌漑(かんがい)用に使われていくことになります。
ここで印象的なのは、激しい洪水に対し、自然の地形を利用して洪水の流れを導き、自然の高台にぶつけるなどする、無理のない水への働きかけです。自然の力に真っ向から挑戦するのではなく、人と自然を調和させる姿勢が印象的です。
こちらの例は日本の南部、九州にある石井樋です(図16)。1620年前後に建設されたこの施設群にも、自然を生かした工夫が凝らされています。象の鼻、天狗(てんぐ)の鼻といった施設があり(図17)、一見すると信玄堤とは違う設計思想で作られたようにも見えます。しかし、こちらの図(図18)で全体を俯瞰(ふかん)すると、この象の鼻で流路を山側に固定し、天狗の鼻で分流、アラコ(荒籠)とよばれる減勢工にぶつけて勢いを削(そ)ぎ、石井樋で取水するとともに余剰水を本川に戻してさらに減勢を行う一連の手順は信玄堤と良く類似しています。
水に働きかける、このような考え方は日本だけのものではありません。中国四川省にある「都江堰」(ドゥジアンイェン)は紀元前250年ごろ建設され、治水・灌漑・水運などの諸機能を果たし、今でも現役で使われている施設です(図19)。「都江堰」では、どのように水の流れを治めていたのか見ていきたいと思います(図20)。岷江の流れをまず、「魚嘴」(ユーズイ)といわれる分水工で分水します(図20)。これはちょうど信玄堤の将棋頭に相当します。分水された流れは中央に掘り下げられた水路に導かれ、自然の高台にぶつけられ減勢されます。減勢された流れの一部は「飛沙堰」(フェイシャヤン)により排出され本川と合流します。土砂が取り除かれた残りの流水は「宝瓶口」(ボピンコウ)から取水され灌漑用水として利用されます(図20)。
信玄堤、石井樋と都江堰の平面図を比較してみますと、この図(図21)のようにその類似性に驚かされます。この三つの事例における河川の流れを制御する施設の配置は、流路の固定施設から始まり、分水工、減勢のための高台または減勢工、流水から土砂の排除施設、取水施設と続き、全く同じ手順が採られています。
このような角度から歴史的水施設を見てみると、人はそこにある地形や自然のありさまを俯瞰し、それに対して自らの持てる知見と手段を適合させてきたように見えます。こうしたやり方は現在でも立派に通用するものです。今後の私たちが水に働きかけていくうえで貴重な示唆になりうるのではないでしょうか。
さて、人が水に働きかけるさまを見るためにもう一つ事例を取り上げたいと思います。前の例から少し時代と地域を広げ、地下水路を取り上げます。
地下に水路を作ることは古くからおこなわれてきました。この図はオマーン王国のアフラージ(単数形ではファラージ)といわれる導水路の一部を構成する地下水路です(図22)。現存する最古のファラージは2500年以上前に建設されたとされています。この施設では水の蒸発を抑え効率的に水を運ぶために、地下水路を掘り、導排水を行ってきています(図23)。オマーンには3、000以上のファラージがあり、今でも灌漑、生活用水を運び、市民の生活を支えています(図24)。
時代が進み、トンネルの掘削技術が発展するにつれ、雨水や洪水排除にも地下水路が使われるようになります。メキシコシティは元々湖沼だった地域を干拓してできた都市です(図25)。そのために低湿地が多く、雨水がたまりやすい地形のために多く排水の必要があったと聞いています。その干拓前の姿を、私も以前に訪れたソチミルコ自然公園に見ることができます(図26)。メキシコシティでは、こうした低湿地での下水と雨水を排水するための大規模な地下水路が、19世紀と20世紀にそれぞれ建設されましたが、都市化などにより現存施設では排水しきれなくなってきたため、新たなトンネル排水路が建設されています(図27)。このようにメキシコ大首都の発展は地下のトンネル網で支えられているわけです。
日本では首都圏周辺の洪水氾濫解消を目的として大規模な放水路(首都圏外郭放水路)が完成しています(図28)。私がこの地下放水路を視察した時には、まるで地下神殿を訪れたように感じました。この施設の特徴は施設全体が大きな貯水容量を持ち、洪水を一旦(いったん)地下に貯留し、その後排水を行うことが可能になっていることです。また、雨水をトンネルに導入する際に渦状に水を流入させて、円滑に導水するなど、最新の水理的知見を活(い)かしています(図29)。
クアラルンプールでは、2007年から洪水放水路と道路トンネルを兼ねたSMARTトンネルが運用されています(図30)。この施設は200を超えるCCTVカメラを設置するなど情報技術を駆使し、安全面に多くの配慮がなされ、現代の都市で大きな課題となっている都市洪水と渋滞対策に対し、一つの施設で解決を図っているところに特徴があります。私も先日、この施設を視察し(図31)、また、車でトンネルを通り、その壮大な構想と実用性に驚かされました。
これからお見せする図は今までお話しした古代から現代までの地下水路、すなわち、オマーンのファラージ、メキシコの地下トンネル、東京の首都圏外郭放水路、クアラルンプールのSMARTトンネルの断面図を重ねたものです(図32)。地下空間を活用し、重力を使って水を運ぶ発想は2千年以上にわたり共通です。その一方で、興味深いのは、科学技術の進展につれ、地下水路の用途と規模が今なお発展して応用範囲を広げているところです。今日ある施設も最終形ではなく、これからも知見の進歩や様々な経験を経て、さらに変化を遂げていくと期待されます。
国連では、2015年にアジェンダ2030が採択され、気候変動に関するパリ協定や仙台行動枠組みにも合意、2018年3月から持続可能な開発のための水行動10年を実施することも決まりました。水は持続可能な開発目標の第6目標として独立し、第11.5ターゲットとして水と災害も盛り込まれています。国際社会が高い目標を掲げ、水問題に取り組むこととなりました。
これらの目標達成への道のりは長く困難なようにも見えます。しかし、今まで見てきたように、人類はその歴史の中で持てる知見や経験、技術をその都度最大限に活用し水に働きかけ、成果を上げてきました。自然に挑戦するというよりは自然と折り合い、調和しながら水の脅威を鎮め、水の恩恵を享受してきました。科学技術の進歩は、私たちの水への働きかけをより効率的により広い範囲で行うことを可能にしてきています。
今まで先人たちがそうしてきたように、私たちも今ある人と水の関係に立脚し、水と自然を注意深く観察し、水、自然と人の関係を調和させ、私たちの経験・教訓・科学技術をフルに活用し、必ず道は開け、新しい水に関する目標とターゲットに向けた確かな歩みを始めることができるのではないでしょうか。そして、そのことが世界の持続可能な発展を助け、貧困の撲滅や地域の安定に大きく寄与するものと私は確信しています。水問題の解決は人類が掲げた高い共通の目標達成の礎をなします。私も皆さんとともに、世界の様々な水問題解決に向けて歩みを続けていきたいと思います。
ありがとうございました。