ロータリーエンジン車の思い出について話す山本浩二さん=東京都中央区、竹花徹朗撮影
1975年、広島中が沸き立った広島東洋カープのセ・リーグ初優勝。そのときの中心選手たちには東洋工業(現マツダ)からロータリーエンジン(RE)搭載の「コスモAP」が送られた。そのひとり、「ミスター赤ヘル」こと山本浩二さん(70)に当時の思い出を語ってもらった。
――コスモAPはどんな車でしたか
初優勝したときにキヌ(衣笠祥雄さん)やワシとか5人がコスモをもらった。かっこいい車だった。真っ赤で、これが目立つんだよ。ナンバーは背番号と同じ「8」にしてくれたけどちょっと恥ずかしかったね。2年くらい乗ったかな。
――REにどんな思い出がありますか
初めて買った車も「ファミリアロータリークーペ」。入団して2年目だったかな。ロータリーエンジンって当時話題だった。それまでにないエンジンだったからね。(ローターを)ぐるぐるまわして。乗ってみたら出足(スタート)がいい。「ルーチェ」に「カペラ」、ロータリーエンジンの車はだいぶ乗ったよ。やっぱり加速がよくて。
――どんなところに行きましたか
優勝のあとに家族を連れて東京まで行ったことがあるね。伊豆のほうで温泉にも入って、いろいろと巡った。
――車好きとしても有名ですね
どこに行くにしても車ほど便利なものはないね。だから免許は早めにとった。そのあとカープに入団して、自分で車を持って。車は欠かせないものだったね。
――東洋工業の当時の社長で、カープのオーナーでもあった松田耕平さんはどんな方でしたか
独立採算でカープがやっていくなかで、耕平さんは選手はみんなファミリーだっていうチームを作っていた。子どもみたいに思ってくれた。チームに対する「熱」があったよ。
――カープの黄金時代は初優勝とともに始まります
キヌとか同じ年代のいきのいい選手を集めて、根本(陸夫)さんが監督になって。強くするための土台を作った。そしてみんなが野球をするのを家族のように支えてくれた。だから強くなったんだよ。(構成・神沢和敬)
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〈やまもと・こうじ〉 野球解説者で日本プロ野球名球会理事長。1946年、現在の広島市生まれ。法政大を経て68年のドラフト1位で広島東洋カープに入団し、本塁打王4回。18シーズンプレーし、その後計10シーズン監督も務めた。選手、監督で計6度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ制覇を経験している。カープ一筋で「ミスター赤ヘル」と呼ばれた。