自宅で漫才の台本を執筆する秋田実さん。執筆中はいつも手拭いで鉢巻きをしていた(1956~57年ごろ、藤田富美恵さん提供)
「上方漫才の父」と呼ばれた秋田実(みのる)氏(1905~77)の没後40年を前に、長女の藤田富美恵(ふみえ)さん(78)が近く評伝を出版する。生涯で7千本を超す漫才の台本を手がけた業績の陰に隠された、父親の「もう一つの素顔」を記録した。
「上方漫才の父」が見た旧満州 秋田実氏の遺稿見つかる
■「本当の父の姿知った」
大阪・阿倍野の旧自宅に秋田氏が保存していた戦中~戦後の草稿や掲載雑誌などの資料を、改築の際に藤田さんが引き取り、関西大学へ近く寄贈されるのを機に、児童文学作家でもある藤田さんが父親の足跡をまとめた。
秋田氏は生前、「自分が生涯で漫才の台本を一番たくさん書いたのは戦時中だった」と話していた。舞台装置はいらず、耐乏生活の中でも無難な娯楽だという側面から、活躍の場はむしろ増えたという。「節約第一」や「防空戦」など、国策を掲げながらも失敗談などを織り込み、聴衆を笑わせる台本を多く手がけた。
だが、太平洋戦争の開戦とともに、演芸も規制が強まった。都市への空襲が激化し、劇場や寄席も相次ぎ焼失。敗戦直前に大陸へ渡っていた秋田氏は、家族が疎開していた福井県坂井郡坪江村(現・坂井市)へ引き揚げた直後は、学校の先生になる気だった。藤田さんには後日、「これからの生涯は小さい時からの夢だった学校の先生になり、学問の研究をしながら過ごしたいと思っていた」と、当時を語ったという。
妻の実家の京都へ転居したのも、その準備のためだった。「鷲輪津頼」(ワシはつらい)、「冬賀北蔵」(冬が来たぞう)などユーモアものを書く時使った十数通りの筆名とは別に、「石村鞍吉(いしむらくらきち)」という堅い名前でボクシング雑誌の編集も手がけていた。漫才とは異なる収入の手立てを作るためだったという。
「別の道へ進むか、お笑いの世…