日本兵に殺された仲村渠明勇さん(左)=徳田球美子・島袋由美子著「久米島の戦争」(なんよう文庫)から
1945年、沖縄で大規模な戦闘が終結した後から8月の終戦後にかけて、住民が殺害され続けた地域がある。那覇市の西100キロに浮かぶ久米島。日本兵が住民を米軍のスパイとみなし、乳児を含む計20人の命を奪った。島にいた最後の日本兵が投降してから、7日で72年。悲劇は島で今も語り継がれている。
特集:沖縄はいま
「何で日本軍に殺されなきゃならんかね」。久米島の喜友村宗秀(きゆむらそうしゅう)さん(88)は72年前、隣人で兄のように慕っていた仲村渠明勇(なかんだかりめいゆう)さん(当時25)とその妻、1歳の息子の遺体を見た。その時のことを思い出すと目が潤んだ。「3人とも真っ黒に焼かれて、頭がなかったですよ。殺した証拠として持って行ったんでしょう」
沖縄本島や周辺の離島が焦土と化した沖縄戦で、久米島は無傷に近かった。
沖縄県教育委員会が編集した2種類の「沖縄県史」(1974年と2017年に発行)によると、米軍が久米島に上陸したのは沖縄戦が終結した3日後の45年6月26日。米兵966人の案内役に、島出身の仲村渠さんがいた。
海軍兵だった仲村渠さんは沖縄本島で捕虜になり、収容所で上陸作戦を知った。久米島に対する大がかりな攻撃が計画されていた。仲村渠さんは、島内の日本兵は海軍通信隊の数十人だけであることを米軍に説明し、投降の呼びかけ役を志願した。
県史に収録された当時の地元農…