山形市のデパート。催事出店を知ってアップルパイを買いに来たファンに金メダルを見せ、談笑する船木和喜さん(右)=山形市七日町、相場郁朗撮影
スキージャンプの長野五輪金メダリスト、船木和喜さんは従来型の支援体制から飛び出し、42歳のいまも現役選手として飛び続けている。アップルパイの販売を手がける経営者としても、後進の支援に独自のスタイルを模索する。東京五輪が3年後に近づくなか、スポーツ選手を支え、育てる体制は十分なのだろうか。
■パイの重さ、金メダルと同じ
――いま、年に十数回は全国の百貨店を回り、催事場でアップルパイを売っていますね。山形の百貨店では冗談を交えて気さくに声をかけ、船木さんと知ったお客さんが驚いていました。
「ジャンプの後輩の就職先になればと、仲間と一緒に2008年に食品の卸を始めました。故郷の北海道余市町産のリンゴを使って何かできないかな、と。パイはつくるのに手間がかかるので、やる人は少なかった。競合しないので、入りやすかったですね」
――五輪金メダリストの肩書は、通用しますか。
「『ジャンプの船木』と言えばわかってもらえましたが、最初は信用がなく、催事場への出店契約はすぐには結べなかった。いまも、売り上げは厳しいところは厳しい。僕が行かなかったら、売れませんから。パイの味や形には苦労しましたが、お客さんや百貨店の方に『君にしかつくれないものをやっては』とアイデアをもらいました。パイの重さは、長野五輪の金メダルとほぼ同じです」
――売り上げで、ジャンプをやる子どもたちを支援しています。
「道具にお金がかかるので、親の負担を少しでも減らせればと。スーツやヘルメットなどのスポーツ用品を贈り、これまでに6500点を超えました。売り上げには波がありますが、利益が出てもゼロになるよう道具を贈っています。北海道江別市には、小さなジャンプ台を手作りで整備しています。子どもが競技を始めるきっかけにしたい」
――なぜ、独自に?
「長野で金メダルを取りながら何もしていない、という恥ずかしさが原点です。1972年の札幌五輪で金銀銅のメダルを独占し、日の丸飛行隊と呼ばれた笠谷幸生さん、金野昭次さん、青地清二さんに『五輪後にどういう活動をしましたか』と長野五輪の後、1人で聞きに行きました。国に働きかけ、北海道では学校の校庭に小さなジャンプ台ができ、競技人口が増えたそうです。長野の団体金メダルメンバーは4人なので『俺たちより、もっとできる』と励まされました。子どもが減っている時代、このままだとメダルの取れない国になる危機感を持ちました」
■利益上げないと支援できない
――現役選手のまま、次世代を支援する。葛藤はありますか。
「まだ飛んでいるんだと言われるのは、嫌でしたね。僕、格好つけでしたが、引退は別の話と思い始めてから、考え方が変わりました。プライドといった問題ではなく、利益を上げないと子どもたちを支援できないと」
――五輪でメダルを手にした翌…