ノーベル賞授賞式で、カール16世グスタフ・スウェーデン国王(右)から文学賞のメダルと賞状を受け取るカズオ・イシグロさん=10日、ストックホルム、AFP時事
◆カズオ・イシグロさん ノーベル文学賞授賞式後の晩餐会スピーチ
今でもその外国人、私の本にカラフルにでかでかと描かれた西洋人の男の顔を鮮明に思い出すことができます。迫り来るようなその顔の背景には、一方に爆発によって巻き起こった煙とほこり、もう一方には空に飛び立っていく白い鳥たち。5歳の私は、日本の伝統的な「畳(タタミ・マット)」の上にうつぶせに寝そべっていました。その瞬間が記憶に刻まれているのは、おそらく背後からきこえてきた母の声、ダイナマイトを発明したものの、その使われ方に心を痛めてやがて「ノーベルショウ」というものを創設したというその男について語るときの、その声が何か特別な感情をたたえていたからでしょう。「ノーベルショウ」、その名を私は日本語で初めて耳にしたのです。「ノーベルショウというのはね」と母は私に語りました。「ヘイワ(平和や調和を意味する日本語です)を広めるためにつくられたものなのよ」。私たちの故郷である長崎が、原爆によって壊滅的に破壊されたわずか14年後のことです。幼かった私は、「平和」というものが何か大事なものだということを直感的に知っていました。それなしには、「何かおそろしいもの」が私の世界に迫ってくる、ということを。
優れた知見が常にそうであるように、ノーベル賞は、子供でも理解できるようなとてもシンプルなものです。そしておそらく、だからこそ、世界に影響を与え続けているのでしょう。自分の国の出身者がノーベル賞をとったときに感じる誇りは、オリンピックで自国のアスリートがメダルを獲得するのを目撃したときに感ずるそれとは質的に異なります。わたしたちは、自分の同胞が他を優越しているということで誇りを感じるのではありません。そうではなく、われわれ人類の一員が、人類共通の財産となる偉大な貢献をなしたということに誇りを感じるのです。わき上がるその感情は大きく、人を結びつける力を持っています。
わたしたちはいま、異なる種族が互いに強く反目し、ばらばらに忌み嫌い合うような時代を生きています。私が生きる糧にしている文学という分野がそうであるように、ノーベル賞は、互いを分断する壁を越え、人類として共に何に立ち向かっていくべきなのかを思い出させてくれます。ノーベル賞はまるで母が幼い子供に聞かせるような物語であり、世界中の母たちがそうしてきたように、子供たちをインスパイアし、彼らに希望を与えるのです。この栄誉を前に、私は幸せでしょうか。もちろんです。驚きのニュースを受け取った数分後、91歳となる母に電話をかけた際、自分でも気づかないうちにそう呼んでいたように、「ノーベルショウ」を受けたことを、たいへんに幸せに思っています。ノーベル賞というものが持つ意味を、幼かったあの日の長崎で直感的に悟ったのと同じように、自分が今この賞の精神を理解できていると信じています。そしてその歴史の一つに連なることを許されたことに、畏怖(いふ)の念を感じながらここに立っています。ありがとうございました。(板垣麻衣子)