「勝ちたい」。今月14日、南大阪大会の初戦で1―35で敗れた長吉(ながよし、大阪市平野区)の梅木空竜(そらた、2年)は悔しがった。
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部員不足が続き、昨夏14年ぶりに出場した長吉で、梅木はアルバイトをしながら野球を続けている。家計を支える母は朝7時半に出て、遅い日は夜9時すぎに帰宅。小遣いをもらえば負担がかかると、練習は30分で切り上げ、午後5~10時はコンビニで働く。立ち仕事でつらい時もある。それでも就職先の幅を広げるための車の免許取得費用をため、卒業時に母に贈り物をしようとバイトに通う。
この日、初めて夏の大会で打席に立ち、中軸を任されたが打てなかった。でも、「最後まで野球を続けることが母への恩返しになる。走り込みをして鍛え直したい」と梅木は誓った。
長吉は公立校で600人近い生徒の多くがバイトをし、約半数は卒業後に就職する。野球部員は20人に満たず、平日練習に最後まで参加するのは5~6人。155球を投げて四回途中に降板した投手花岡甲樹(こうき、2年)は「人数が多ければしっかり練習できるのに」と思うこともある。それでもこの現実を受け止めている。
約1時間40分の試合時間のほとんどは守備に費やされた。主将を務めた捕手の戸坂暢臣(まさおみ、3年)は「もうちょっと野球がしたかった。2年半の野球部が高校生活で一番楽しかった」と涙のあとに語った。
応援に駆けつけた昨夏の主将、田中涼太(19)は昨年1打席で終わった。「初球で打ち取られたが、3年間続けてきたからこそ立てた舞台。一人だけの練習もあったが野球部を後輩たちに残せて良かった。楽しみながら、部員を増やして次も出場してほしい」と願う。
この夏で3年生6人が引退する。試合で2ストライクと追い込まれてから唯一適時打を放った安住拓巳(2年)は「練習を続けてきてよかった。先輩が再建してくれた部を何とか続けたい」と前を向く。
長吉が大敗した日、広島では球児らが地元で泥かきのボランティアをしていた。西日本の豪雨で被害が大きかった広島県呉市にある呉昭和はしばらく休校になった。隣の熊野町に住む加賀本凌(3年)の自宅周辺の道路も陥没、冠水。両市町でも土砂崩れや川の氾濫(はんらん)が発生し、犠牲者が出た。7日予定の開会式は延期になった。「最後の夏ぐらいはマツダスタジアムで行進させてやりたかった。神様はきついことをする」と監督の上原田望(50)。
呉昭和は昨夏、3年生の引退後に当時2年生の2人だけになった。加賀本と村中航大(こうだい)。村中が一時離れ、加賀本だけが残ったとき、練習相手は監督と女子マネジャー1人だけだった。放課後の部室は暗闇だった。加賀本は寂しさでやめたくなった。しかし、2009年夏に16強まで進んだ呉昭和。「自分が部の伝統をつぶすわけにはいかない」ととどまった。
春に村中が戻り、夏の大会は湯来南(ゆきみなみ、広島市)と並木学院(同)との連合チーム計11人で臨むことが決まった。平日は各校でそれぞれ練習し、週末に練習試合を重ねた。二塁手だった加賀本は捕手に指名され、捕球からスムーズに投球に移れるよう練習を続けてきた。そこへ豪雨が襲った。
「もしかしたら広島は大会は無理なんじゃないか」。加賀本は休校中、焦る気持ちを抑え、自宅近くで泥かきをしながら、合間に地元にいる別の高校の部員とキャッチボールを続けた。「少しでも早く地域が復旧してほしいと思った。普通の生活があってこそ野球が成り立つから」
3校連合の主将で湯来南の谷口貴哉(3年)は、豪雨から数日後に学校が再開すると、打撃練習にいつも以上に集中した。「高校野球は見るものに元気を与える。呉昭和が勝てば地元に少しでも笑顔が戻るかもしれない。負ければ呉昭和に『自分たちが練習できなかったせいだ』と思わせてしまう」と言った。
谷口の思いを聞いた加賀本は「チームができて数カ月なのに一つになれた気がする」と目を潤ませた。
20日の初戦。六回に加賀本や村中、谷口らが計5安打を放ち、打者一巡で5―4と逆転に成功。しかし終盤、先発の並木学院の白竹月人(1年)がつかまり、5―11で終わった。
セミ時雨の球場外で3校の選手は互いの手を握り、背中をたたき合った。別れ際、主将を務めた谷口と捕手の加賀本が投手の白竹に言った。「来年見に行っちゃるけぇ頑張れよ」。白竹の目が赤くなった。
どんな境遇でも野球を愛する心を忘れない。そんな球児たちの声がこの夏も球場にこだましている。
=敬称略(五十嵐聖士郎、国方萌乃)