チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世がチベットからインドに亡命するきっかけとなったチベット動乱の民族蜂起から10日で60年。ダライ・ラマを追って多くのチベット人がインドに渡ったが、中国政府が統制を強めるなか脱出者が減っている。終わりが見えない難民生活も文化や言語の伝承に影を落としている。(バイラクッペ=奈良部健)
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ヤシの林を歩くサフラン色と赤の法衣をまとった僧侶に強い日差しが照りつけていた。インド南部バイラクッペ。インド最大のチベット難民居住地で約1万4千人が暮らす。
難民によって運営されている寄宿学校を訪ねると、ダライ・ラマの写真が飾られた教室で中学2年の子どもたちがチベット仏教の「思いやり」の考え方について議論していた。
ツェリン・パルデン事務長(65)によると、学校には4~18歳の子どもが通う。9割の子がチベットに暮らす親の元を離れ、ネパール経由でここにやってきて寮生活を送る。親たちは幼い我が子を親類や仲介業者に託して、インドに送るのだという。
中国側の学校では中国語による教育が基本。ツェリンさんは「我が子に過酷な越境を強いてでも、チベットの言葉や文化を学ばせたいというのが親の切実な願い」と説明してくれた。
しかしこの5年間は、チベットからの入学者はいないという。中国当局による国境警備やチベットの人々への監視強化で、越境が難しくなったことが背景にある。1990年代、2千人近くいた児童生徒は900人弱にまで減った。
バイラクッペには祖父母や親の代から暮らす家庭の子が通うチベット人学校もあり、その児童生徒数も減り続けている。英語で学ぶ私立学校に通わせ、欧米の大学を目指す傾向が強くなった。寄宿学校に通うテンジン・チョギャルさん(18)も「両親と一緒に外国に住むのが夢」と言う。
「チベット社会のために働くと言っても教師か亡命政府職員くらいしかない。悲しいことだが、よりよい教育や仕事を求めるのはやむを得ない」。そう語るツェリンさんの娘2人も米国とスイスに渡った。
こうしたことが、チベットの伝統継承を難しくしている。40年前に亡命政府が設立した手工芸センターでは、がらんとした建物の中で女性2人がじゅうたんを織っていた。サニモさん(46)は「20年前はここで70人が一斉に織っていた。今の若い子たちはやりたがらない」と話した。1枚を約20日間かけて織り上げる地道な作業。「作り手は年老いたり、海外に移ってしまったり。いつかはいなくなってしまうのだろう」
バイラクッペにたくさんあったチベット仏画の掛け軸「タンカ」の店は2店舗に減った。そのうちの一つを営むジグメさん(40)は「伝統の保護は大事だが、それだけでは生きていくのが難しい」と語った。
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