悩み、説得され、22歳が苦渋の決断を下した。7日に初日を迎える大相撲名古屋場所を休場することになった大関貴景勝。「小さい頃からの夢だった」と顔をほころばせた昇進からわずか3カ月。関脇に転落する秋場所で再起をめざす。
カド番の貴景勝が名古屋場所を休場 大関から転落は確実
「大関に上がるのに、なかなか大変な思いをした。陥落は残念」。師匠の千賀ノ浦親方(元小結隆三杉)に説得されて休場を決めた直後、貴景勝はそんな胸の内を口にした。「自分のせいでけがをした。何かしら予防できた部分もあったのではないか」と自らを責める言葉も。力士人生でひざの負傷は初めてだけに、「ひざはしつこいというか、うるさい。日によって調子が変わる」と戸惑いも見せた。
昇進から2場所で転落するのは、現在のカド番制度になった1969年名古屋場所以降で、2000年名古屋場所の武双山に次いで2人目となる。ただ、昇進から2場所続けて負け越しても大関にとどまった例がある。1999年夏場所の千代大海だ。
新大関の春場所の取組で鼻骨骨折し、3勝8敗4休で負け越した。この負傷が「公傷」と認められて夏場所を全休、カド番の名古屋場所で勝ち越しを決め、転落を免れた。
もし、貴景勝にも公傷が認められたら――。悔しさを必死に抑える22歳の顔を見ていて、そう思った。
日本相撲協会はかつて、本場所の土俵でけがをした力士の救済措置として公傷制度を採用していた時期がある。認定委員の承認を得られれば、翌場所を休場しても同じ地位にとどまれる仕組みで、1972年に導入された。
安心して治療に専念できるだけでなく、地位は保証されて収入も減らない。その半面で安易な休場につながる問題点も抱えていた。2002年の名古屋場所では、公傷全休の7人を含む計16人の関取が休場。好取組の減少で切符の売り上げにも影響し、04年に廃止された。
しかし、大けがは力士生命を縮めることになりかねない。大相撲人気で巡業の日数も増え、「けがを治す時間がない」という力士の声も聞く。公傷制度の復活を望む声は根強くある。
力士会会長の横綱鶴竜は「誰が見ても大けがの時はある。協会が指定する病院がきちんと判断する(仕組みをつくる)とか、そういう風にできないか。同じ地位に戻れるというのは力士にとってモチベーションになる」と語っている。(波戸健一)