「岩壁の松の木のようになれ」「荒波にも台風にも倒れないように、深く根をはれ」。福岡県大牟田市の三池工を率いて、1965年夏、第47回全国高校野球選手権で甲子園初出場、初優勝の偉業を果たした原貢監督は、猛練習の折に触れて説いた。
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優勝メンバーの捕手穴見寛さん(71)は当時、激しい練習に耐える精神論だと受けとめていた。
穴見さんは大学卒業後、原監督に請われ、東海大相模(神奈川)のコーチになった。77年、原監督の東海大監督就任に伴い、後継指名された。29歳の初陣で夏の甲子園に導いた。
豪快だった一方で、原監督は細やかさも持ち合わせていた。選手ごとにグリップの太さ、長さを調整した特注品のバットをあつらえた。折れるとオートバイで小一時間かけ、熊本のバットメーカーで調達した。木材を選びに宮崎や大分の山中まで出向いていたと、後年、メーカーの社長から聞かされた。
「誰にも知られず、自らの信念で深く根を下ろしていた」と穴見さん。
東海大五(現東海大福岡)に移った穴見さんは、85年の選抜で甲子園の土を踏んだ。1点を追う九回二死から出塁した走者に盗塁のサインを出して成功。逆転勝利を呼び込んだ。エースをあきらめ、スパッと1年生投手に替えてしのいだ原監督の采配を思い出した。台風や荒波にさいなまれるような修羅場で、自らの決断を支えたのは、どれだけ深く根をはってきたかに尽きる。岩壁の松も人の生き様も同じ――。こめられた意味がわかったのは同じ監督になってからのことだ。
あの夏から50年を迎えるのを機に三池工OB会設立の機運が高まった。「俺もグラウンドに行くから」。原監督はうれしそうに話した。だが、かなわないまま2014年に78歳で亡くなった。
穴見さんらOBは年に数回、三池工の選手たちを指導する。「原監督の遺志を受け継ぐ」。恩師であり、「親父」でもある監督の下で頂点に立ったあの経験を伝えたくて――。
原貢なくして私はない
「神奈川の高校野球を変える」。全国制覇の翌1966年に東海大相模に就任した原監督は宣言した。木製バットで投高打低の時代、浪商(現大体大浪商)尾崎行雄投手らの剛球をどう攻略するか。当時の神奈川では引っ張らずに単打を重ね、犠打で少ない好機を生かす法政二のチーム打撃が主流だった。原監督は、三池工の攻撃的野球のスタイルをそのままに東海大相模を鍛えた。
「打倒東海大相模ではなかった。打倒原貢だった」。68年秋に24歳で横浜高校の監督になった名将・渡辺元智さん(74)は、そう振り返る。原監督を慕って東海大相模には全国から選手が集まり、日本一と評されたナイター設備があるグラウンドに合宿所は誰もがうらやんだ。一方で、渡辺さんは車のライトでグラウンドを照らしてノック。新婚の妻が寮母を務め、渡辺さんは選手と川の字になって寮に寝泊まりした。原監督の力の野球を上回りたい――。親身な指導を求め、選手たちが集まってきた。東海大相模のグラウンドが見える場所に寮を移し、常に意識してみせた。
ライバル視する渡辺さんだったが、原監督は遠ざけることはなかった。やがてゴルフや酒席を共にし、畏怖(いふ)は畏敬(いけい)に変わる。懐に飛び込んでわかったことがある。「人間が大きい。豪快に見えるが細やかな人柄」。慕ってくる後進を鍛えようとする心遣いを感じた。原監督は「俺のやり方を盗めよ」と言わんばかりにベンチのど真ん中で采配を振るった。
勇退を発表して臨んだ2015年の神奈川大会決勝。相手は東海大相模。甲子園への道は途絶えた。だが、胸がすくほど、万感の思いがこみ上げた。
「原貢なくして、横浜高校と私はない」(渋谷雄介)