引退会見に臨む野口みずき選手=15日午後、神戸市中央区、井手さゆり撮影
2004年アテネ五輪女子マラソン金メダリストの野口みずき選手(37)=シスメックス=が15日、神戸市内で引退会見を開いた。「(最初の所属先である)ワコールの入社時に『足が壊れるまで走りたい』ということを目標にしたが、その通り思う存分走り切れたと思う。とてもすがすがしい気持ちです」と晴れやかな表情で語った。
「足を替えて」…命をかけた19年 野口みずき引退
欠場した08年北京五輪以降はけがに悩まされた。引退の理由については「2年くらい前から、北京五輪前に故障したところが原因でバランスが悪くなり、今までのような走りができなくなった」と説明。今後については未定で「陸上界に少しでも恩返しができたらと考えている」と話した。
穏やかな笑顔が目立つ会見だったが、自分にかける言葉を問われると「納得するまで走り切れて、本当によかったね、お疲れさまって言ってあげたいです」と涙で言葉をつまらせた。
■決断は「3月、4月あたり」
15日に開いた引退会見での野口みずき(37)=シスメックス=のあいさつと主なやりとりは次の通り。
野口みずきは本日をもって現役を引退します。理由はトップレベルの走りができなくなってしまったことです。2年くらい前から心と体のバランスが悪くなってしまった。リオデジャネイロ五輪に向けてアテネ五輪やベルリンのような走りをしたいと練習にとりくんでいましたが、北京五輪で故障したところがずっと尾をひいていた。(最初の所属先である)ワコール入社時に「足が壊れるまで走りたい」ということを目標にしていたが、思う存分走り切れたと思います。とてもすがすがしい気持ちです。
――最終的に、引退を決断した時期と経緯は
本当にぎりぎりまで現役を諦めていなくって。2016年に入ってから、思うようにトレーニングができなくなっていたので、そのあたりから引退が頭をよぎった。でも、名古屋ウィメンズが最後か、リオ五輪が最後かという感じでいました。だから、3月、4月あたりです。
――引退決断を一番最初に誰に伝えたか
やっぱり(総監督の)広瀬さんに相談しました。1年くらい前、思うようにレースに出られず、トレーニングもうまくいかなかったときに「もしかしたら、リオの選考レースかリオ五輪が最後になるかもしれません。16年は私にとって引退をかけた年になると思います。よろしくお願いします」と言っていました。
――北京五輪前からロンドン五輪までの4年間は故障が多かった。振り返って
04年のアテネ五輪を金で飾れて、07年の東京国際女子でいいタイムで優勝できた。また(北京で)金メダルをとって、伝説をつくりたいという気持ちがあったけど、考えすぎてしまって、階段から転げ落ちてしまったようなどん底を見た。「集中したいから」といって、あまり良い態度で取材に応じていなかったこともあったので、神様が一回つまずいたほうがいいって言ってくれたんじゃないかなって思います。私にとっては必要な経験だったと思います。
――現役時代の一番の思い出は
一番はやっぱりアテネ五輪での金ですが、その前の大阪国際女子(03年)の走りが、いまでも良い走りだったと思う。広瀬さんも、(前任監督)の藤田さんも予想していなかったタイムを出せた。2人の指導者をいい意味で裏切れたかなと。それと、この前走り終わった名古屋ウィメンズは本当に花道のように道が輝いてみえた。その三つが心に残るレースです。
――今後のプランについて
長年お世話になり、自分が成長できた陸上なので、出来る範囲で携わることができたらいいなと思っています。明確にはこうしたいとは考えていませんが、少しでも恩返しができたらと考えています。
――自らに言葉をかけるならどういう言葉をかけるか。生まれ変わっても陸上をするか
納得するまで走り切れて「本当によかったね、お疲れさま」って言ってあげたい。生まれ変わっても、走っていると思います。
――どん底のときに支えになったものは
ファンのみなさんの言葉です。すごくたくさんの励ましのお手紙をいただき、何度も救われました。そして、一番そばでサポートして下さった広瀬さんです。「何度もやめます」と言ったけど、ずっと止めてくれた。力を信じて諦めずに支えてくれた広瀬さんには感謝しています。例え話だと思うんですが、「もし会社からクビっていわれても、それでもぼくは最後まで(野口選手を)見届けたい」と言ってくれた。その言葉で、こんなにぼろぼろになるまで走れた。
――シドニー五輪のマラソン女子金メダルの高橋尚子さんへの思い
よく「尊敬する人は誰ですか」と聞かれて、心の中では高橋尚子さんだったんですけど、言えなかった。それは尊敬する人を言ってしまうと、その人を超えられないと思ったから。現役を引退したら「本当はリスペクトしていました」と言いたくて、やっと名古屋ウィメンズを走り終わってから言えた。アテネで金を取れたのも、シドニーで高橋さんが金をとったから。高橋さんの映像をみて、自分に置き換えていた。高橋さんのように大歓声をいっぱいうけるって。
――一番強かったと思うのはいつか
03年~07年だけど、一番は07年の東京国際女子。03年のパリ(世界選手権)、04年のアテネでも金をとれたし、05年のベルリンも良いタイムだった。でも、どれも100%合わせられていない。今だから言えますけど、アテネのときは風邪をひいてのどを痛めていた。07年は合宿もほぼ完璧にできて、東京国際女子のレース前も何事もなく迎えられた。
――なぜ、ボロボロになってまで走ろうと思ったのか
私のここ数年の苦しんでいる姿を見て、広瀬さんは優しさで何度も「やめてもええで」って言ってくれた。やめてもいいのかなと思ったこともあったんですけど、中途半端なまま終わりたくなかった。北京でだめになって、左足が抜ける感じがずっと続いていて、(13年の)モスクワの世界陸上で再び世界の舞台に立てたけど、脱水症状で途中棄権した。初めてだったんです。ゴールまでたどりつけなかったのが。その中途半端なまま終わりたくなかったのが、あんなになってまで走った理由です。